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鎌倉 建長寺 本尊・地蔵菩薩が素晴らしい

鎌倉 建長寺
日本初の本格的な禅寺
建長寺の本尊・地蔵菩薩が素晴らしい
方丈(龍王殿)   見所
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内8
山号:巨福山 こふくさん
宗派:臨済宗建長寺派 大本山
創建:建長5年(1253年)
開山:欄渓道隆
開基:北条時頼
本尊:地蔵菩薩
鎌倉五山第一位
別称:建長興國禪寺
☎:0467-22-0981
拝観料:500円
駐車場:あり 60台 600円


交通機関
JR横須賀線「北鎌倉」駅よりバス5分(江ノ電バス「鎌倉駅」行き「建長寺」下車)
または徒歩約15分



1253年(建長5年)、時の執権、北条時頼が宋より蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)を招いて、我が国の本格的な禅宗専門の道場として創建されました。



三門、仏殿、法堂が一直線に並び、禅宗特有の伽藍様式をいまでも残している、鎌倉の今に残る禅刹です。


総門(巨福門)

天明3年(1783年)京都で建立されたものを移築しました。

巨福山は京都建長寺の山号です。


三門(さんもん)(国重要文化財)
この門をくぐることによってあらゆる執着心から解き放たれることを意味します。
創建者である蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の言葉に、「建長寺は、禅をまなぶすべての人に開け放たれている。この境内には人を差別しない清風が、いつも吹いている」とあり、建長寺はあらゆる人々、修行者(しゅぎょうじゃ)に門を開放している事を表しています。


楼上(門の上部)には、釈迦如来(しゃかにょらい)・十六羅漢(じゅうろくらかん)・五百羅漢(ごひゃくらかん=修行を完成された人)を安置しています。
この門は1775年に万拙硯誼(ばんせつせきぎ)和尚などの努力によって再建されました。
創建当初は三門後方左右に大坐禅堂(だいざぜんどう)、大食堂(だいじきどう=話をしたり、音をたててはいけない食堂)がありました。
今風で言いますと黙食ですね。


梵鐘 国宝
鎌倉三名鐘  建長寺・円覚寺・常楽寺
建長寺の山門から境内奥に向かって右手にある茅葺屋根の鐘楼にある梵鐘です。1255年に鋳造された梵鐘、国宝に指定されています。鐘楼の美しさも必見です。
戦時中、軍隊によって寺の梵鐘も武器に変わったしまったものも多いが、三名鐘は鋳造当時のものを伝えている。
大旦那 北条時頼 五代執権
撰 文  蘭渓道隆
鋳物師 物部重光

仏殿(ぶつでん)(国重要文化財)
寄棟造の単層で裳階があります。
北条時頼と蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の、迷いの中から救い悟りを得るという願いが込められています。
現在の建物は、創建当初より4代目のものといわれ、東京の芝の増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公(ひでただこう)夫人(お江の方)の霊屋(おたまや=墓)を建長寺が譲り受けました。正保4年(1647年)移築




仏殿の欄間の彫刻



本尊
地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)
もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置されています。

建長寺の本尊・地蔵菩薩(天国から地獄に至るまで、すべての生物を救い、成仏させると誓う菩薩)が安置されています。
威風堂々とした仏像です。


法堂(はっとう)(国重要文化財)
母屋造、方三間、裳階(もこし)付き、銅板葺きで、文化11年(1814年)上棟
文政8年(1825年)竣工。
棟梁は建長寺大工の河内久右衛門。内部には身舎・裳階の境に柱が立つのみで間仕切りはありません。床は瓦の四半敷き。
堂内中央奥に高さ2メートルを超える法座を設け、その奥に本尊千手観音坐像を安置しています。
鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定されています。


388人の僧侶がいた記録があります。現在は法要・講演・展覧会などに使われており、修行僧は西来庵(せいらいあん)で修行しています。


関東最大の法堂で、現在は千手観音(=迷いの中から救い悟りを得るために偉大な働きを持つ観音)を本尊としています。


天井の雲龍図は鏡天井に直接描かれたものではなく、別に制作された絵を掲げたものです。
建長寺の創建750年を記念して、小泉淳作(こいずみじゅんさく)画伯によって描かれました。
また、2005年愛知万博に陳列されたラホール中央博物館蔵の釈迦苦行像のレプリカが博覧会終了後寄贈され安置されています。

唐門(からもん)(国重要文化財)
桃山風、向唐破風(むこうからはふ)という、16世紀後半の日本の屋根の建築様式で作られた、漆塗りの四脚門です。技巧を凝らした金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ています。とても美しいものです。



1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠(ひでただ)夫人(お江の方(お
ごうのかた))の霊屋(おたまや=墓のお堂)の門として建てられました。


 その後、1647年、仏殿・西来門(せいらんもん)と共に建長寺に移築、寄附され方丈(龍王殿)の正門として使用されました。



関東大震災で被害を受けましたが、2011年、解体修理がほどこされ、移築当時
の姿がよみがえりました。


庭園は夢窓疎石(むそうそせき)の作です。
ここで夢窓疎石さんのお話
別名を木訥といい、禅僧、歌人、漢詩人、作庭家 多才の人物。
後醍醐天皇より夢窓国師の称号を賜っています。
初期室町幕府の実質的指導者である直義との対話を記録した『夢中問答集』は、聖と政の第一人者同士の対談として、思想史上重要であった。
歌人としては、直撰和歌集に11首が残る。
作庭では
京都     西方寺
京都     天龍寺
岐阜県多治見 永保持
山梨県甲州市 恵林寺
山梨県見延町 覚林房  など多数

方丈(龍王殿)
方丈とは昔は住持が居住する場所でした。現在は法要・坐禅・研修の場所とし
て使われています。
この建物も、総門と同じく京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)より1940
年に移築されました。
1732年に建てられ、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。





得月楼
得月とは月の景趣を十分に眺めるという意味で、李白も「酒を促して得月を喜ぶ」と詠んだ。池辺に二階の楼閣形式で作成された中国の園林を模して、日本的な景観を生み出しています
床を除いて全てヒノキ作りの室内で講演などを体験できる

半僧坊  一番奥にあります
境内の最奥の勝上巘(しょうじょうけん)にあります。


かなり遠いです。
建長寺の鎮守で、半僧坊大権現をまつる。明治23年(1890)建長寺235世霄貫道師が静岡県の奥山臨済宗・方広寺から勧請した神様。



祭神の半僧坊が天狗の姿をしておられるとの伝承から、半僧坊へ上る石段の途中には天狗にまつわる沢山の造形を拝見することができます。



かつて半僧坊が勧請されるまでは中央・五大尊、東・八幡、北・熊野、西・子神、南・第六天の四方鎮守が祀られていました。
火除けや招福に利益があるといわれています。
半僧坊権現とは、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師(方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したといいいます。


周辺の復興された天狗像に守られ、その偉容は霊験あらたかでお参りもおおいようです。また、やハイキングの人も多いようです。


カラス天狗



建長寺の柏槇(びゃくしん)(かながわの名木百選鎌倉市指定保存樹木)
和名:イブキ(ヒノキ科)
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際にまいたと言われている。
生育状況も勢いがあり、県下の代表的な名木として知られている。
樹高 13メートル
胸高周囲 6.5メートル
樹齢 約760年(推定)
7本あります。
イブキはビャクシンとも言い、東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられ、禅寺を象徴する樹木です。
樹高27メートル、胸高周囲8メートル、樹齢千五百年に達するものもあると言われている。


こぼれ話
建長寺船派遣 1325年 建長寺船は幕府の公認を受けてますが、民間船でした。
平安時代の日本は宋と柵封と言う名の臣従貿易をしていました。元が興り宋を圧していた。宋が弱体化し南宋と変わる中でも元に臣従しなかったから元寇がおきる。 建長船は衰退期の南宋に送った船。中国の全体勢力と日本が正式に外交を結ぶのは足利氏と明になってからでした。



塔頭
西来庵(せいらいあん)
開山蘭渓道隆の墓塔を守る


妙高院(みょうこういん)
第28世肯山聞悟(こうざんもんご)の塔所


同契院 (どうけいいん)
第31世象外禅鑑の塔所


宝珠院(ほうしゅいん)
第35世了堂素安の塔所
龍峰院(りゅうほういん)
第15世約翁徳倹の塔所


天源院(てんげんいん)
第13世南浦紹明(なんぽじょうみん)の塔所


正統院(しょうとういん)
第14世高峰顕日の塔所


回春院(かいしゅんいん)
方丈の裏手から半僧坊へ向かう道の途中を右に折れた谷戸の奥に位置する。第21世玉山徳璇(4字目は王偏に「旋」)の塔所


華蔵院(けぞういん) 
第60世伯英徳俊の塔所。境外塔頭。民有地にあり、立入禁止となっている。


禅居院 (ぜんきょいん)
建長寺総門から県道を挟んだ向かい側に位置する。第22世清拙正澄の塔所


長寿寺
足利尊氏の菩提のため、子の足利基氏(関東管領)が建立


円応寺
別名新居閻魔堂。もとは由比郷、続いて材木座に移転し、近世に現在地に移転した。本堂には閻魔王を含む冥界の十王像を安置する。
ここは後ほどご案内します。

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