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佐渡の旅路 たらい船 佐渡金山 佐渡奉行所

佐渡の旅
ここは車で行くかっ現地でレンタカー借りたほうが便利です。
一泊2日  民宿利用
佐渡へは佐渡汽船 こさど丸(カーフェリー)を利用 今は就航していないそうです。
この船は小木港に接岸します。これ今は国道(350)なんです。伊豆の土肥から清水港とおなじですね。新潟港から両津港も同じく国道350です。
こさど丸
廃止は平成20年
速力22.5ノット
排水量8754トン
全長 119m


昔は新潟港から両津港 寺泊りから赤泊港 直江津港から小木港の三カ所から出ていましたが今は新潟港から両津港 直江津港から小木港の2カ所になっています。


たらい船
☎:0259-86-2992
利用料金 600円
妻は小さな船は怖がるので乗りませんでしたが結構楽しいようです。
明治時代初め、もともとは磯ねぎ漁(下記の漁)をするために作られたたらい舟。狭く入りくんだ岩礁が多い小木海岸で、ワカメやアワビ、サザエなどをとるために考案されたもので、洗濯桶から改良に改良を重ね、現在のたらい舟になったと言われています。
小舟より安定するようで、小回りが出来る。観光用のたらい舟があります。たらいに櫓がついていています。女船頭が案内しますよ。またよろしければ自分で漕こともできるようです。



佐渡金山  世界遺産  2011.11.22
佐渡は古来より「金の島」と呼ばれ今昔物語にも登場し。世阿弥の「金島書」にも登場
12世紀には砂金が取れる島と記載されているほど。
1989年には採掘が休止されるまでなんと78トンの金が取れまた銀も2330トンが採掘されたのです。
島のいたるところが金銀の採掘場でした。
金を目当てに多くの人が集まり、最盛期には5万人もいたということです。

水を汲みだす桶 内部がらせん状になっていて水が上がってくるようになっています。
これは今のコンクリートミキサー車の仕組みとおなじです。

佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と言われた。
「三年水替すると死ぬ」と恐れられた。
無宿人とは、人別帳(戸籍)から名前をはずされた人のことを意味し、幕府の治安対策の一環としてそのうちの何人かが、何も罪は犯していなくとも、定期的に捕縛され(無宿人狩り)、強制的に佐渡に送られ、佐渡金山の坑道内の水替え人足として働かされた。「隔日交代の一昼夜勤務という過酷な労働環境に加え、坑道の中の採石による粉塵と、闇の中を絶えず照らす魚油の煤煙で珪肺病になり、多くの人々は3~5年で死亡したと伝えられている。徳川定信の時代から無宿人がりが始まった。


無宿人の佐渡金山への送り込みは、「島流し」と区別して「島送り」と呼ばれた。
佐渡金山では初期の頃は、水上輪(長さ3m、直径30cm程の細長い桶の中に螺旋状の翼を取り付け、桶全体をハンドルで回転させ、水を汲み上げる物)を使用して湧水を排出させていたが、江戸中期になり、富鉱帯を求めて更に坑道の奥深くまで行くと水上輪の使用では追いつかなくなり、湧き水を手作業で汲み上げる人海戦術に頼らざるを得なくなってきた。それは深い坑道から滑車式の釣瓶で、24時間ぶっ通して上下でリレー式に湧き水を汲み上げる作業だ。江戸から多くの水替え人足が高賃金で集められたが,これでも足りないため、江戸、大阪、長崎などから無宿人が送り込まれた。しかし世に言われているほど多くの無宿人が労働力として送り込まれなかったようである。
佐渡へ送られた無宿人の総数は1874名とされ、中には10年の水替を勤め上げて郷里に戻った者や、そのまま佐渡に定住し普通の生活に戻った者もいました。
この中には多くの女性も含まれています。
金穿大工(かなほりだいく)の作業
引立穿(ひったてぼり)・・・・水平方向に掘る
冠穿(かんむりぼり)・・・・・上向きに掘る
台穿(だいぼり)・・・・・・・下向きに掘る
立合(たてあい)
 鉱脈のこと。佐渡金山では石英層の中に金銀が含まれているので,石英層を立合といった。

狸穴(たぬきあな)
 細い鉱脈をたどりながら掘り進んだ坑道で,やっとくぐれる位の小さなものが多い。


女性は、洗濯、飯炊きなど日常の仕事を強いられたのです。
人別長は主にお寺が保管(要は昔はどこかのお寺に属していたのですね)
ここで一部の人の誤解を解くため
子古佐渡には極悪人はいません。
極悪人は、八丈島が尤重罪で、三宅島などの伊豆七島に 流されました。
流罪の貴族や知識人、北前船の商人や船乗りも暮らしていました。
佐渡のホームページより引用


江戸時代はノミで岩を割っていたのですね。
江戸初期の手掘り坑道跡である「宗太夫坑(そうだゆうこう)江戸金山絵巻コース坑道跡に、「佐渡金山絵巻」に描かれている採掘作業が再現されています。
ここでデジカメが故障(湿気で壊れたので 乾燥するまで待った)

砂金取りの体験  3000円
プールのようなところで黒色のお盆で砂を取りゆすって砂金を探すのですが、私は2粒妻は3粒、採れた砂金は持ち帰りできます。小さな小瓶に入れてくれました。



トキの森公園
新潟県佐渡市新穂長畝383-2
☎::0259-22-4123
私たちが立ち寄ったときは2羽のみでした。


「トキ資料展示館」と「トキふれあいプラザ」があります。「トキのふれあいプラザ」では飼育しているケージ内の植栽や水田等を佐渡の自然に近い状態にしており、トキの飛翔、採餌、抱卵、巣立ちなどのトキの生態を間近で観察することができます。


トキはかつて、ほぼ日本全土で普通に見られる鳥でしたが、明治頃、狩猟され、肉や羽は重宝されました。農薬の使用、生息地の改変・消失・開発などの環境破壊が起こり、1952年「特別天然記念物」に1960年「国際保護鳥」に指定されましたが、その頃にはすでに20羽前後にまで減少していました。
1981年野生のトキを保護し人工飼育が始まり2003年まで続けられましたが成功せず、日本産トキは絶滅してしまいました。
1999年中国から贈呈されたトキの人工繁殖が成功し、現在では毎年数十羽の元気なヒナが育っています。2008年には、佐渡の大空へ10羽のトキが放鳥され、それから毎年放鳥は続いています。

少し破れました。  広い敷地


金の精製に使用されたといわれる鉛の延べ板、船。
当時の製錬技術を考察する貴重な資料が展示されていた。
「灰吹き法」で使用されていた鉛の板で、奉行所跡の深さ1.1mの穴から、172枚発掘されたうちのひとつとなります。
国指定の重要文化財です。


これ取り出せば記念品がもらえます。伊豆半島の土肥金山の金の延べ棒は一回り大きかった。

奉行所・・・といえば、御白洲
ここ下に降りて罪人の体験できますよ。    恐れいいったか・・・ははー なんて!


江戸中期からは基本的に佐渡国の民政を担当する町奉行と、佐渡金山などの金銀山経営を管轄する山奉行の2人制となっていました。
配下には組頭2人、広間役7~8人。
他には定役、並役、使役、同心らが約70人、牢守、水主、与力(30騎)など300人の役人がいました。

佐渡奉行所
住所:新潟県佐渡市相川広間町1-1
幕府の直轄地天領
直轄領は、藩ではないため、政務を行う場所は「陣屋」ですとか「代官所」「奉行所」と言う事になります。
佐渡ではすぐに年貢の5割増を命じたため、困窮した百姓が江戸幕府に願え出て、代官は交代となり、1603年に初代奉行大久保長安が佐渡に赴任しました。
江戸時代、金銀山を管理するためにおかれていた佐渡奉行所。その奉行所を復元したのが佐。
大久保長安は佐渡金山の開発を急いだことから、鳴子に設置されていた代官所を、相川に移し、佐渡奉行所としました。
また、佐渡島内に5箇所(のちに4箇所)にも代官所を設置しています。
大久保長安は、徳川家康から非常に信任厚くまた側近でありました。佐渡金山だけでなく石見銀山の代官や、伊豆金山でも開発を行っています。
それ以外にも関東、信濃、甲斐、美濃、駿河、大和、越後の統治も担当していましたようで、このように手広くできるわけではないので、優秀な家臣らが実務を担ったのであろうことは容易に推測できます。


佐渡伝承記念館

この子供はじめ人形と思いませんでした。


戦国船「白山丸」
安政5年(1858年)小木町宿根木出造船「幸栄丸」を地元白山神社にちなみ「白山丸:と改名された。
全長 23.7m 幅 7.24m 艫高(ともたか) 6.61m


他にも回りましたが写真・資料がありません。ご勘弁を
離島は八丈島にも行きたいです。


お土産は佐渡おけさの人形でした。

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