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世界遺産 グラバー園

世界遺産 グラバー園

16 世紀後半 大洋の波を越え、夢を抱いて長崎にやってきた異国の商人たち。
ヨーロッパや中国から多くの人々が渡来し、この地は賑やかな国際貿易港へと発展し江戸時代の鎖国期に引き継がれました。
長崎も横浜・函館とともに開港され華やかな時代を残しています。
長崎港を見渡す丘陵地には日本風の屋根瓦に覆われた洋風建築が立ち並び、長崎外国人居留地が誕生しました。
スコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅をはじめ3つの国指定重要文化財の住宅と、長崎市内の貴重な洋風建築を見ることができます。


居留地時代の面影を今に伝える石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと、歴史、文化の偉業を見ることが出来ます。


水道創設当時の共用栓
「水道創設当時の共用栓」が立っています(長崎市では1891年(明治24年)に水道が創設)。
共用栓に顔の上のボタンを押すと、口から水がゴゴゴボと出てくる。面白いものを考えたもものです、しかし飲み水でもなく手を洗うものではなく、不思議なもの。

自動電話


旧三菱第2ドックハウス
1896年(明治29)に「三菱重工長崎造船所」が、船がドックに停泊している間の外国人乗員専用の宿舎として建てた洋風建築物。
1972年に三菱から長崎市へ寄贈され、飽の浦からグラバー園内の現在地に移築された。
ここからは、長崎港が一望できる。
「歴史の泉」から西へ下る階段を通らないで、石畳の下り坂を進むと、「稲佐山」、「石畳の坂」、が並ぶ素晴らしい眺め。

旧スチイル記念学校
学びの園(その)東山手の9番地に開設された東山学院の本館「旧スチイル記念学校」。
学校名の由来は、早世した愛児をしのんだアメリカ人宣教師W・H・スチイルが寄贈した大金で建てられて逸話に由来します。
グラバー園への移築前は、海星学園の寄宿舎として使用されていましたが、1972年に長崎市に寄贈され、2年後に現在地に移築されました。

旧長崎地方裁判所長官官舎
883年(明治16)建立の「旧長崎地方裁判所長官舎」は、元長崎会所跡(上町)にそびえていました。
同時期に建築された長崎地方裁判所が原爆により焼失した現在、長崎の残る唯一の明治期の政府庁舎として、貴重な文化財です。
1979年(昭和54年)に現在地に移築され、今にいたります。


旧ウオーカー住宅
ウォーカー商会を設立したロバート・ニール・ウォーカーJrの旧邸である「旧ウォーカー住宅」は、もともと大浦天主堂側面を通る 「記念坂」沿い、南山手乙28番地にありました。
日本瓦や和風庇(ひさし)、イギリス式暖炉と煙突など、長崎居留地に典型的な和洋折衷型建築物。
1974年に一旦解体され、現在地に移築されました。
さだまさし原作の映画『解夏』のロケ地

旧リンガー住宅
主屋を港への眺めを得られるように西側を正面とし、その前面は角石の列柱で支えられた吹き放ちベランダで構成されています。
そのベランダの天井は格子天井と、開放的かつ重厚な南欧風バンガロー形式となっています。
木骨石造平屋建/施工:小山秀之進(推定)/国指定重要文化財




旧自由亭
わが国初の西洋料理店「自由亭」は、1878年(明治11年)、諏訪神社下の馬町12番地に建てられました。
オーナーシェフは日本における西洋料理界の草分け「草野丈吉」。アメリカ大統領経験者として初めて来日した「ユリシーズ・グラント」をはじめとする各国のVIPに存分に腕を振るいました。
彼の没後は、長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として使用。1973年、グラバー園の現在地に、全体の4分の1程が移築され現在に至ります。
2階は喫茶店として営業。もし利用するなら、長崎港を一望できる北の窓側テーブル席が良いでしょう。
「旧自由亭」から「旧グラバー住宅」へ下る階段手前が、グラバー園での記念撮影ポイントだそうですが、稲佐山 「長崎港」、「ジャイアント・カンチレバークレーン(世界遺産)」、長崎港に見得る。そして「旧グラバー住宅」が一つに収まる好アングルなんですがスルーしてしまいました。
でもジャイアント・カンチレバークレーンは映ってませんが長崎港が良く見えます。


旧オルト住宅
旧グラバー住宅を別格とすれば、園内でも最も印象に残るのが、ひと際ファンタジックな意匠の「旧オルト住宅」。
石造円柱に支えられたベランダ中央に、妻切屋根の外壁(ポーチ)が突出。その横には、モッコウバラ・ナニワイバラのツルが生い茂っています。
この異色な建築デザインは、長崎居留地にも見らない貴重なものです。
ポーチから玄関口へ目を向けると、1935年(昭和10)頃造られた石造りの噴水が佇んでいます。
1865年(慶応元)頃の建築。/施工:小山秀之進(推定)/国指定重要文化財。

旧グラバー住宅
グラバー園のシンボルで、明治日本の産業革命遺産の構成資産でもある「旧グラバー住宅」。グラバー園巡りもいよいよ佳境に入ります。
幕末の1863(文久3)年に創建された「旧グラバー住宅」は、現存するわが国最古の木造洋風建築。同年は、薩英戦争、下関戦争が勃発した年で、風雲急を告げる情勢の中で産声をあげました。
当初は接客用サロン・別荘風の住宅として建てられ、明治10年~20年の増改築の末に日常の生活を営むための住居として完成しました。特徴的な北側の温室も増築時によるもので、1905年(明治38)までは松の巨木が温室内から突き出していました。
設計者は不明。施工者は大浦天主堂と同じ天草の「小山秀之進」と推測されています。
T字形の主屋内部は、複雑に構成されており、広い玄関ホールと廊下を設け、各室を結んでいます。
「ベランダの菱組天井・石造りの床」や「レンガ製の煙突」に加え、「漆喰塗の外壁」、「屋根の日本瓦」などの和洋折衷のデザインが違和感なく溶け込んでいます



三浦環像前広場
三浦環(蝶々夫人)・プッチーニ
「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」の架空の舞台として:
不朽の名作オペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」。
蝶々夫人のモデル=グラバーの妻ツルとする突飛な説が流布など、蝶々夫人がアメリカ海軍士官ピンカートンの帰りを待つ場所として、グラバー園を連想するのはそう不自然ではありません(実際の舞台は、同じ長崎港を見下ろす居留地でも、グラバー園のある南山手ではなく、オランダ坂のある東山手でしたが)。
戦後、観光雑誌や書籍などが、旧グラバー住宅を蝶々夫人ゆかりの地「マダム・バタフライハウス」として誤って紹介。こうした蝶々夫人関連での誤報が、開園して間もないグラバー園の人気向上に一役買った訳です。
戦前に活躍した蝶々夫人のプリマドンナ「三浦環」や『ある晴れた日に』の作曲家「ジャコモ・プッチーニ」の銅像が「三浦環像前広場」に立っているのは、そうした歴史を背景としています。

プッチーニ

狛犬
主屋奥にある温室前に鎮座している狛犬。なぜこんなところに狛犬が、洋館には一見似つかわしくない石像です。実は今日のキリンビール社のラベルの元になったもの。説明版にはこう記されています。
説明:この彫刻(こま犬)は、今日のキリンビール社のラベルのもとになったものであり、また、ラベルの「麒麟」に太い口ひげが描かれているのは、キリンビール社の前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの社長を勤めたグラバーの口ひげをもとにしたといわれている。


なお、キリンビールのラベルについては、旧グラバー住宅の温室の入口にある狛犬がそのモデルだという説があるが、イギリスのロンドン郊外で1845年からビールを醸造しているフラーズ社のロゴからヒントを得た可能性の方が高い。
同社のロゴには麒麟と同じような伝説の奇獣であり、ライオンの胴体に鷲の頭と羽根をもつ「グリフォン」が使われている。
索引:『グラバー園への招待より


祈りの泉
旧ウォーカー住宅のベランダから休憩所にでることができます。
休憩所の壁面のモニュメントが「祈りの泉」です。長崎の歴史には欠かすことができないキリシタンの苦悩と救いを表現しています。


ここは食堂  高いので止めました。

レリーフ

中央石段レリーフ

次は大浦天主堂


トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911):
大英帝国の最盛期が幕をあげようとしていた1838年、グラバーは、スコットランド・アバディーンシャイアで呱々の声をあげた。
後の日本近代化に計り知れない功績を残した彼は、1859年(安政6)に若干21歳で開港間もない長崎に一歩を踏み出す。
2年後に「グラバー商会」を創業したグラバーは、「生糸・茶の輸出」、「幕藩への西洋式最新兵器の売却」などに成果をあげ、貿易商グラバーの名を居留地に轟かせる。その資金で、伊藤博文、井上馨、五代友厚など「維新志士の訪欧・留学を斡旋」、「薩英戦争の終結への仲介」など政治活動にも手を広げ、新時代の扉を開こうする日本を縁の下から支えた。
その後も日本にとどまり、「高島炭鉱の開鉱」、「小菅修船場の造営」、「三菱財閥の相談役」、「後のキリンビール株式会社に連なるスプリング・バレー・ブルワリー再建」などに辣腕を振るうグラバー。
こうして日本近代化に多大に寄与したトーマス・B・グラバーは、1908年(明治41年)、勲二等旭日重光章授与の栄誉に浴する。1911年(明治44年)に逝去後、亡骸は長崎の坂本国際墓地に埋葬され、波乱に満ちた生涯を閉じた。


倉場富三郎(1870-1945):
トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として1871年(明治3年12月8日)に長崎で生まれた倉場富三郎は、トーマス・グラバー没後のグラバー住宅の所有者として歴史に名を刻むこととなる。
富三郎は、「トロール漁法の導入」や魚類図鑑の大著「グラバー図譜の刊行」など現在まで連なる水産立県長崎に不朽の足跡を残す。
他にも「長崎内外倶楽部」、「雲仙ゴルフ場」の設立にも関わっており、混血として日本と外国を繋ぐ事業に尽力した。
しかし、昭和初期の英米との対立から太平洋戦争の開戦により運命が暗転。戦艦武蔵の建造に伴う「グラバー住宅からの退去」、「妻・ワカの急逝」、そして「原爆の投下」と不遇の晩年を過ごした富三郎は、終戦直後の8月26日に自らの手で生涯を閉じた。
父グラバーの栄華に隠れがちだが、倉場富三郎の功績と悲劇は後世にまで語り継がねばならないだろう。

ハート型の敷石「ハートストーン」

触れると恋がかなう? グラバー園の不思議な敷石
グラバー園で有名なハート型の敷石「ハートストーン」。“触れると恋がかなう”、“2人で石に手を重ねると幸せになれる”、“二つ見つけるといいことがある”など、いろいろな言い伝えがあります。


石畳と同化しており、見つけることはできませんでした。
【場所】
グラバー園内

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