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滋賀県 安土城跡 織田信長の最後の居城 日本初の天守閣「天主」 總見寺

2021年10月11日記事修正しリライトしました。
安土城跡 
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
電話番号:0748-46-4234(安土駅前観光案内所)
入城時間:9~16時 ※終了時間は季節により変動あり


ここの見学は2時間程必要です。
またスニーカーで登ることをお勧めします。


入城料:安土城跡入山料700円(摠見寺拝観料 別途500円)


織田信長の最後の居城 日本初の天守閣


安土城は、織田信長が築いた城です。天正4年(1576)、織田信長敵対関係にあった大名
名、武田勝頼との長篠の戦いに勝利。この時は3000もの鉄砲で戦うという近代戦を行っているのです。


その後天下統一の拠点として安土城を築き始めました。総奉行として築城を担ったのは、当時佐和山城(滋賀県彦根市)主だった丹羽長秀(にわながひで)。


安土は、中山道を押さえる戦略的に重要な土地でした。その城郭の規模、容姿は太田牛一や宣教師ルイス・フロイスの記述にあるように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭でした。山頂の天主に信長は居住し、その家族も本丸付近で生活していたそうです。なお安土城だけが天守のことを「天主」と表すのが通例だそうです。



この天守閣の最上階が近くの天主の館に復元されています。これについては別に紹介済みですからそちらをご覧ください。
           
安土城は総石垣に天守を構え、戦闘よりも権威を見せつけるために築かれた城で、従来の城とは性質が異なります。


1582年(天正10年)1582)6月2日に起きた本能寺の変で、織田信長は自刃、しかし遺体は発見されていません。また信長の首も光秀は見分していないので謎めいています。


本能寺の変の後に、明智光秀が安土城に入城しますが、織田信長の後継者争いとしては羽柴秀吉との一大決戦へ臨むため、数日で安土城を発ってしまいます。


明智光秀が安土城を離れた後、安土城は原因不明の放火によって天守と本丸が焼失。
6月14日から15日にかけて安土城は炎上したとされます。築城からわずか6年。
城内に残る石垣や建物は八幡山城(滋賀県近江八幡市)を築く際に移され、さらには城下町も八幡山へ移転されてしまいました。


現在は天主があった山頂まで歩いて登ることができまが。この城郭が建造された当時は琵琶湖に接していたため容易には入れないようになっていたわけです。しかし、昭和に入って付近の干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れた位置になっています。

天主まで704段の石段

登る前にトイレは済ませてください。途中にはトイレはありません。

(伝)羽柴秀吉邸跡

城内に入る)と石垣造りの登城路「大手道」(おおてみち)があります。


安土城の大手門(正面玄関)から山頂部に築かれた天主や本丸に至る重要な道です。道幅は約6~7m、両側は幅約1m強の側溝と高さ3mの石塁によって囲まれており、180mも直線的に続いています。しかも、登っていくと敷石は墓石や石像などが多く使われています。よほど石が不足していたのではないかと思います。


別に信長は仏教が嫌いではなく、僧兵をもって自分の政策に横やりを入れるため荒っぽいことをしたのであり、秀吉も同じようなことをやっているわけです。

大手道の両側には、雛壇のように郭が配されています。
伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡、伝徳川家康邸…とそうそうたる武将の屋敷跡が並びます。どの武将の屋敷跡にも「伝」という文字が入り、すべて確認できていないようです。



「天下布武」御朱印のある摠見寺
摠見寺(そうけんじ)は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。元々は天主と城下町を結ぶ途中にあり、安土城を訪れる人々が摠見寺の境内を通って織田信長へ参上した記録が残されています。


本能寺の変の後、安土城炎上では類焼をまぬがれたものの、江戸時代末期の火事で焼失。その後は、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移して現在に至っています。
この寺は、借り本堂が徳川家康邸宅跡を利用し、本堂が建てられています。
襖画がとても素晴らしかったです。


杉戸  ウサギ

留蓋瓦 ここは獅子でした。これらを見て歩くのも面白いです。



石段の石仏 何故かお賽銭が置いてありました。

城壁にも石仏

まだまだ続く石段



黒金門跡
大手道を上っていくと、ひと際大きな石垣がります。安土城中枢部への主要な入口のひとつ黒金門跡。黒金門をくぐると東西180m、南北100mに及ぶ周囲は、強固な高石垣で固められています。


五層七階の(地上6階地下1階の天守を建て、本丸内に豪華な御殿を建て並べた、近世城郭の先駆となった最新鋭の城郭でした。(伝)本丸跡・(伝)二の丸跡・(伝)三の丸跡などの郭で構成。建物の跡は残っていませんが、400年以上も崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣が残り、築城技術の高さに驚かされます。
また、天皇を迎えるための豪華な御殿でした。


信長公本廟
天主跡西、伝二の丸跡に信長公の本廟があります。羽柴秀吉が天正十一年一月三日年賀に登城翌二月に信長公ゆかりの太刀、烏帽子、直垂のなど遺品を埋葬し本廟とした。
六月二日一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行ったとの記録があります。



天主の跡地は背丈ほどの石垣に囲まれ、東西およそ28mの台地、礎石が1.2m置きに並んでいる。この部分は天主の地下部分であった。天主はおおよそ33mの木造建築で、当時他では類を見ないもので、これを見た人々は驚愕したであろう。


天主跡から信長の廟を見る

天主跡から琵琶湖方面を望む


天主台跡からは琵琶湖を一望できます。安土城は、琵琶湖を利用した経済や軍事上の拠点とし、瀬田の唐橋に次ぐ重要拠点、瀬田唐橋を制する者は天下に号令できる位置になるのです。そのようなことも考慮しここに構築するのに不可欠ではなかったのではないか。


安土城の対岸には、織田信長の甥である織田信澄(のぶずみ)の大溝城(滋賀県高島市)、琵琶湖北岸には羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)、琵琶湖南岸には明智光秀の坂本城(滋賀県坂本市)が立ち、安土城とともに琵琶湖上の全ての往来が管理できたわけです。


天主跡から琵琶湖 西湖を望む



本丸御殿跡
天主から少し下ると本丸御殿「信長公記」によればこの建物は天皇を招き入れる「後行の間」があったと記されている。


天皇が来るとなれば、もう誰もが認める天下人、武家の統領なのです。この建物は慶長年間に改修された京都御所の清涼殿を模した造りであったようです。高床式で天主と廊下で繋がっていたようです。



天主から下ってくると、三重塔と仁王門に出会います。

三重塔は元々甲賀の長寿寺にあったものを天正三年ころに移築(どのような理由があったのかわかりません。)この三重塔は大正時代に三層目と屋根が崩落祖ましたがすぐ修復されたようです。

仁王門  重要文化財
元亀二年(1571年)甲賀の武士山中俊好が建立。門内の金剛力士像は重要文化財応仁元年(1467年)因幡院朝作の銘がある。これも。信長が天正年間に甲賀から移したものです。


ここを下ると先ほど入城した

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