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三重県 石山観音公園

2021年11月12日記事修正しリライトしました。


石山観音公園
☎:ありません
亀山関宿からすぐ。
安芸郡芸濃町大字楠原の県道津関線沿いに立つ、明治34年(1901)建立の「石山観音道」の石標から南に進むと、 すぐ左手の小高い丘上に明治35年の建立で天台宗真盛派貫主・石山覚湛の撰文になる「刻観世音碑」があります。


この碑から約 1,500m程、山を分け入ったところに石山観音公園があります。この山道は舗装され、普通乗用車の通行が可能で、石山観音公園には 駐車場も用意されています。


石山観音公園内には、石仏が散在しています。説明によると、「四十余体の石仏の内、大型のものが古く、鎌倉中期に遡るものがあり、その他は江戸初期までの間に西国三十三カ所にちなんで、観音像が彫刻されたと考えられる」とあります。

石仏めぐり
駐車場手前の右側に道より一段高くなった広場があります。ここには近年まで参籠堂(間口約9m、奥行約 4.5m、平屋建て瓦葺)がありました。古くはこの付近一帯を石山を管理した浄蓮坊のあったところと伝えられてますが、その遠隔については 明らかではありません。しかし江戸時代初期の慶安年間(1650年頃)以前に、この坊は楠原字久保垣内に移され、旧石山観音 院浄蓮寺(現存)と称するようになったようです。


巨巌の石山
石山は楠原地区の西部に位置する小丘陵群の一つで標高は約160m、付近の山々が緑に包まれている中 にあって、石山のみはその名の如く山骨。


所々に奇岩が聳え巨巌が伏し、その間に木々の緑が 交錯、花や紅葉を織り交ぜて自ら仙境霊地をなしています。


この巨巌に阿弥陀・地蔵・西国三十三所観音等40余体の 仏像を半肉彫りに刻み出しているのは、三重県下にその例を見ない壮観です。浄蓮坊跡の広場を起点として山を右回りにまわる 順路が開かれ、これに沿って33観音を巡拝するようになっています。


磨崖地蔵立像
広場の西正面に立つ巨石塊には県指定文化財・摩崖仏菩薩立像
(像高3.24m)がその美しい姿を見せています。 頭部の円光と身光とを連ねてともに深く掘り込み、仏体を雨露から守る仏龕(ぶつがん)の役目をしていますが、その外観が 釘抜きの形をしているところから、俗に釘抜型の光背とも呼びます。


光背を深く彫りくぼめただけ仏体は奥行きが深くなり、 殆ど丸彫りに近い半肉彫りとなっています。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に摩尼宝珠を持つ通例の姿ですが、錫杖の様式 から室町初期を下らない頃の作と考えられます。


錫杖の柄の下方腹部より下が欠損しているのは風化のためで、 その年月の長さを偲ばせます。十等身に近い尊容はおだやかに笑みを湛え、巨像を足元から仰ぎ見ると、さらに小さく可愛らしく さえ見受けられます。


石山は雨乞いの霊場
この尊前に石燈籠1基があります。銘に「元文四(1739)未天十一月良辰、楠原村林村楠平尾村氏子中」とあり、 これと一対になるものが山上の阿弥陀尊前に欠損して残っています。また、付近に石の手水鉢があり、これにも「明和九 壬辰年(1772)秋八月吉日、楠原村林村楠平尾村氏子中」と書いてあるが、ともに三郷雨乞の願礼として尊前に供養されたも のでしょう。


地蔵立像と巡拝路を挟んで右側の石に大きく如意輪観音半跏像ありますが、 これは西国三十三ヶ所第一番の那智の観音を現したものです。ややぎごちない尊容ではありますが、石山観音のうちでは 大作の一つです。


巡路を登り始め、左側の石段を登ると、磨崖を深く削って聖観音立像があり、これも大作です。


磨崖聖観音立像
順路右側の空海坐像2体を過ぎると、眼前に巨巌が露出しています。この正面に 県指定文化財・摩崖仏聖観音立像(像高2.52m)があります。これは浄蓮寺覚順が嘉永元年( 1848)に画工をして南都唐招提寺の聖観音を模写させ、それに倣ってこの巨巌に彫り付けたものです。 


この年の正月25日に作り始め、同年4月27日に功をあせり、一ヶ月後の5月27日に開眼した という、造像来歴が記録されている唯一の像です。またその粉本(楠原地区保有)が浄蓮寺に 現存し、併せて紙本淡彩聖観音立像一幅も県文化財として指定を受けています。


この像は石山の諸像の中で最も新しいものの一つですが、石質が脆弱であるため風化が進み、顔面は特に甚だしく、尊容が 溶けて流れているのは惜しまれます。これは古人が造像の最適の一にあるにもかかわらずここを避けていた理由かも知れません。
石山観音の御詠歌に次のようなものがあります。


いしやまの重きちかいの観世音
  みちびきたまへ弥陀の浄土へ


順路
3番・4番は共に 千手観音像で、早く風化したために仏像を削り取って新しい石像に替えています。路傍に大正6年(1917)7月像流の不動尊石像がある。


また小石仏がありますが、五輪塔の笠を台に転用しています。5番は千手坐像で新しいものに替わっています。
6番は千手坐像で古いです
7番は如意輪坐像で当初のもの。
ここから西へやや離れて8番は聖観音立像で大作です。


さらに西に森弥四郎の碑があります。  
その西には役行者の奇像がありますが、頭部を欠失しています。


7番へ引き返しますと、巨巌の腹に仏龕(ぶつがん)が点在しています。この巨巌は俗に「馬の背」と呼ばれる山骨。
20番まではこの全てこの馬の背の西斜面に彫まれています。


9番は三面六臂の如意輪らしく新像に替わっています。


10番は聖観音立像で当初のもの。


11番は千手坐像の古像と別に右の新像とが並置されています。


12番は千手立像で古いです。


13番は 観音半跏像で、新しく大正10年の造像です
14番から18番はは当初の像が残り、18番の隣には新しい
弘法大師坐像に変えられています。


19番千手立像は当初のものです。


20番はは新しいもの。これより西へ少し入ると仏龕のみ残っているものがあり、 さらにその西に21番十一面立像の新像があります。


引き返して馬の背を北へ廻ると関・加太方面の眺望が開けますが、少し行くと 22番・23番はともに千手立像で、大正9年と大正13年の新像を納めています。


馬の背
こから巡路を南へ折り返すと石山の山頂に出ます。山頂より南方へ延びる陵線は草木の生育しない一大巨巌 で、上より見下ろすとあたかも馬が首を垂れて草を食むのを馬上から見た姿を思わせるところから馬の背と呼びならわして来ました。 


ここは眺望が開け、鈴鹿の連山から安濃の平野を一望におさめ、伊勢湾も視野に入り、四季折々の展望が素晴らしいです。


ここでしばらく休憩の後、馬の背の東斜面を下りると
24番から27番まで古像がよく保存されていますが、
28番は十一面立像と千手立像の共に古い仏龕(ぶつがん) が重複しています。


29番少し離れて30番が新しいもの。31番も大正10年造立の千手像に替わっていますが、 その隣に古い仏龕が残っています。
32番千手立像は 顔面が特に風化して細くやせているためか、隣に新しく石像が置かれています。
 
33番は聖観音立像で、少し堅い感じではありますが、 堂々とした重量感のある大作です。


磨崖阿弥陀立像
この巨巌を東へ廻ると、ほとんど垂直の絶壁に石山最古最大の巨像、県指定文化財・摩崖阿弥陀如来立像(像高3.52m)があります。 
台座を含めて5mにも達するこの巨像は、上品下生来迎の阿弥陀で、例の釘抜型(壷型ともいいます)の光背を深く彫り込み、 仏龕(ぶつがん)に兼用しているのは地蔵立像と同様です。


しかしこの釘抜型光背は後世に深く彫り直したもので、 当初はその周辺に僅かに残っている浅彫りのものであったという説もありますが、この改造は 仏体には及んでいないようです。


本尊は丸彫りに近い半肉彫ですが、体躯は平板で着衣は通肩、衣文はやわらかい 平行線を重ねる清涼寺式で、清楚な感じを与えます。台座は細長い単弁式の高い蓮華座を台上にのせた形で、 下の框座(かまちざ)は大きくどっしりして前に張り出しており、正面を2区に分け、各1個の香狭間(こうざま:香様とも書きます) を刻んでいますが、この形は他の木造建築の細部にも共通するもので、室町初期を下らぬものといわれます。


像の胸の正面中央に小さい穴が穿たれているのは、奈良県大野の磨崖弥勒像に見られるように写経や願文を 納めたものでしょうが、早くして蓋石を失っているので、納入物も現存しないのは惜しまれます。


 あるいは造立の年代を知る手掛かりとなったかも知れません。古くは本尊を雨露から守る木造仏龕(雨避け)があったらしく、 光背のさらに上に水平な段を石に刻み、これを桁としてその上に6個の等間隔に並んで彫られた小孔に垂木を挿し込み、 框座前の僅かに張り出した部分の左右に2本の柱を立てて軒桁を支え、これに垂木を渡して片流れの屋根を構えていたと 思われる工作の跡がありますが、いつの頃か笠井で焼失したものらしいです。 


尊前に元文4年銘の石燈籠1基(欠損)がありますが、これは山下の地蔵尊前のものと一対をなすものだそうです。


石山の特色
ここから山の急坂を一気に50mほど下ると巡拝終了。他のこうした霊場は一具の仏像が同じ工人によって短期間のうちに造立 された結果、画一的で個性に乏しいものが多い中にあって、この石山観音は長年月にわたって逐次 追刻されたらしく、個々の仏像に大小の差や姿態の変化があり、各々個性的である。 巡拝道の整備などは明治32年(1899)頃に行われたようです。


橋下の磨崖地蔵
広場前の舗装道路を横切り、駐車場を通り抜けて西へ100m程離れたところに小さい小川があり、 その橋の下の永年による水の浸食崖の巨巌面左岸に立・座 2体の地蔵と、相対する右岸面に 地蔵の
梵字種子3体があります。


地蔵は向かって左が立像(像高1.3m)右が坐像(像高0.75m)で共に仏龕(ぶつがん)を深く 穿って、完全な丸彫りのように背面の丸味まで彫り出しています。共にふくよかな相貌と厚味のある 耳は印象的で、鼻尖欠失の醜さを補っています。 暖か味を感じさせる衣文の彫りには、宋朝風彫刻に通ずるものがあります。


これと向かい合う対岸の巌面には底丸に深く彫り込んだ磨崖梵字地蔵石仏 (地蔵を表す梵字「カ」と読みます)3体があります。鎌倉時代に流行した薬研彫の鋭さはありませんが、 こうした人目につきにくい岩陰への造像は、胎蔵界を意味しているのかも知れません。


相対する下方岩面には地蔵の梵字種子三体が、刻まれています。


こうした人目につきにくい岩陰にひっそりと刻まれたこの石仏は、街道沿いで旅の安全願う地蔵とはまったく別の趣旨で刻まれた石仏のようにおもわれます


最後迄ご覧いただきありがとうございます。

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