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三重県 伊賀 松尾芭蕉生家


住所:伊賀市上野赤坂町304
☎:0595-24-2711(芭蕉翁生家)
拝観料:300円
駐車場:近くの駐車場
交通機関
伊賀鉄道「上野市駅」から徒歩で約5分


正保元(1644)年に伊賀市上野赤坂町で生まれた芭蕉は、29歳までここで過ごし、裏の釣月軒で処女句集「貝おほひ」を執筆しました。



芭蕉翁誕生家です。松尾芭蕉の兄・半左衛門の家と伝えられます。芭蕉(はじめ金作、後、宗房)も、この家で生まれたと考えられます。ただし建物は江戸時代後期のもので、芭蕉の当時のものは残っていません。


釣月軒
裏庭に立つ「釣月庵」は、芭蕉が江戸に発つ前に処女句集『貝おほひ』を執筆したとされる書斎です。



貞享4年(1687)の暮れ、『笈の小文』の旅の途中、芭蕉は久々に故郷伊賀上野に帰省しました。もう父も母も亡くなり、兄はすっかり年を取ったので勤めをやめて、近所の子供たちに習字を教えたりしていました。
芭蕉は久しぶりに帰った実家で、自分が生まれた時の臍の尾を見たのでした。亡き母が大切にしまっておいてくれたものです。
やさしかった母も父も、今はいない。涙が熱くこぼれます。


古郷や臍の緒に泣としのくれ 芭蕉


松尾芭蕉は、正保元年(1644)松尾与左衛門の二男として現在の三重県上野市赤坂町に生まれる。芭蕉は藤堂新七郎家に奉公に出ており、その時に京都の北村季吟に俳諧を学ぶ。その後藤堂家の主君が亡くなったので武家奉公をやめ、俳諧の道に入っていった。
 江戸に出て蕉風俳諧といわれるいつの時代にも人の心にふれる作風を作っていった。「野ざらし紀行」を皮切りに、「笈の小文」、「更級紀行」を出し、新しい世界を開いていく。1689年、江戸の深川の芭蕉庵を去って東北から北陸への旅に出た、その旅を綴ったのが「おくの細道」。


 岐阜県の大垣で旅を終え伊賀に戻る。江戸に帰ったのが1691年で、今度は九州へ旅立とうとしましたが、大阪で病に倒れ元禄7年(1694)51歳で亡くなった。遺骸は遺言により大津膳所の義仲寺に、木曽義仲の墓の隣に葬られます。芭蕉翁の臨終に駆けつけた伊賀の門人・服部土芳・貝増卓袋(かいます たくたい)らは、芭蕉の遺髪を故郷伊賀に持ち帰り、松尾家の菩提寺であるここ愛染院の藪かげに埋め、碑を立てました。


それが芭蕉翁故郷塚です。字は門人の服部嵐雪によるものです


芭蕉の木  実がなっていましたが、好みは食べることはできません


江戸に出て蕉風俳諧といわれるいつの時代にも人の心にふれる作風を作っていった。「野ざらし紀行」を皮切りに、「笈の小文」、「更級紀行」を出し、新しい世界を開いていく。1689年、江戸の深川の芭蕉庵を去って東北から北陸への旅に出た、その旅を綴ったのが「おくの細道」。


 岐阜県の大垣で旅を終え伊賀に戻る。江戸に帰ったのが1691年で、今度は九州へ旅うとしましたが、大阪で病に倒れ元禄7年(1694)51歳で亡くなった。


松尾芭蕉の生誕の地は2つある?-三重県柘植の里
これはよくわかりませんが、つげは隣の村なのです。次回訪ねてることにした。墓もあるそうですが。私としては、滋賀県の義仲寺の墓が本物ではないかと、大阪で没した芭蕉の遺言でしたから。


松尾芭蕉の生い立ち
松尾芭蕉は寛永21年(1644年)、三代将軍家光の時代、無足人・松尾与左衛門の次男として伊賀国城下・赤坂に生まれます(場所は異説あり)。
無足人とは百姓ながらも名字帯刀をゆるされた身分のことです。
幼名を金作といい、通称を甚七郎、元服後は宗房と名乗りました。芭蕉と俳号を名乗るのはずっと後年、深川にすむようになってからです。
金作が13歳の時に父与左衛門が亡くなり、兄半左衛門が家督を継ぎます。金作はそういつまでもブラブラしてられないということでしょうか。
19歳の頃には土地の侍大将藤堂新七郎良忠に仕えています。名も甚七郎、元服後は宗房とあらためました。


宗房の役割は、台所用人、つまり料理人だったと推測されます。藤堂家の若殿良忠は宗房の二歳年上でした。
お互い俳諧に興味があったようで、京都の北村季吟の門下となって俳諧を学びました。良忠は俳諧の号を蝉吟(せんぎん)と言いました。
実の兄のような蝉吟との俳諧修行を通して、宗房の俳諧への思いは強くなっていきました。
ところが宗房23歳の時、実の兄のように親しんできた藤堂良忠が25歳で亡くなります。宗房はどうしたのか?それから7年ほどは消息はわかりません。藤堂家を去ったのか、残り続けたのか…、京都に行っていたという話もあります。

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