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箱根関所  天下の関所が現代に蘇る 象も関所を通る

箱根関所  天下の関所が現代に蘇る
神奈川県足柄下郡箱根町箱根1
駐車場:あり
交通機関
箱根登山鉄道 箱根湯本駅から箱根登山バス・伊豆箱根バス箱根町行きで約40分、箱根関所跡下車徒歩すぐ。


江戸幕府によって、芦ノ湖のほとり、山と湖に挟まれた東海道の要衝に、箱根関所(箱根関)が設置されたのは、1619年(元和5年)のことで、元々この地は西から関東方面へと至る交通の要衝であり、関東防衛の拠点として重要視されていました。室町時代の鎌倉府もこの箱根に関所を設置して通行税(関銭)を徴収しており、戦国時代には北条氏(後北条氏)が山中城を築き、この地を戦略拠点の一つとしている。


東海道を江戸と京都、大阪を結ぶ重要な街道とみなしていた江戸幕府も江戸防衛の要としてこの地に関所を設け、通行時間を定め(明け6つから暮れ6つまで)、厳しく取り締まった。


幕府が全国に設置した53にも上る関所の中でも、東海道の新居、中山道の碓氷、木曽福島と並ぶ規模の大きなもので、幕府がこの地を重要視していたことが垣間見ることが出来ます。


一般的に、関所では「入り鉄砲に出女」を特に取り締まったといわていますが、この箱根関所では江戸方面からの出女を特に厳しく取り締まっていたとさます。「入り鉄砲」とは文字通り、江戸に鉄砲をはじめとする武器を持ち込むことで、「出女」とは江戸から出ようとする女性、特に大名の奥方や子女のことで、ひそかに抜け出すことは謀反ありとして、お家取りつぶしの口実ともなったようです。


江戸幕府は、各地の藩を治め、謀反(特に外様大名でしょう)。などを未然に防ぐために、大名の奥方や子女を江戸に住まわせ、それを監視しており、いわば人質を軟禁するような形となっていた。


それらの「人質」が江戸から逃げることは、すなわち謀反のおそれがある、ということで、それを防ぐために、「出女」を厳しく取り締まっていたというわけだ。その上参勤交代をさせ各大名の財力を使わせることで武力の調達ができないようしていました。



屏風山と芦ノ湖に挟まれたこの地は自然の要害として、箱根山中を通る東海道の中でも通行人を監視、取り締まるのに適した場所であったのです。


山の中腹から湖の中まで柵を設け、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、関所の両側に江戸口、京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合う形で、通行人を監視していた。


関所と街道周辺の山林は、要害山・御用林に指定され、関所を通らずに山中を通過して「関所破り」「関所抜け」を行おうとたくらむものは厳罰に処せられたという。


箱根関所には、弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・「突棒・刺股・袖搦各1」の三つ道具1組・寄棒10が、常備されていた。しかしこれ、見せかけで旅人に心理的な脅しをするためのものでほとんど使われることもなく、例えば鉄砲には火薬が入っておらず、弓があっても矢がほとんど無かった、等が判明している。しかし、矢場なんてあるんですね。矛盾しっすが、たまには小田原藩の足軽が練習に来たりしたのですかね。


番所には、等身大の人形が飾られていました。しかし服着てないのですね。今はどうかわかりませんが迫力ないです。
まあ往時の雰囲気を想像することができることはできます。


ところで、箱根関所は、相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を領地とする小田原藩に管理運営を任されており、関所に詰める役人は、関所役人と呼ばれ、一ヶ月交代で務めていた様です。関所役人が小田原から箱根関所に赴任する際には、様々なものを持参している。


例えば、関所役人の責任者である伴頭が持参した物として、黒紋付上着・野袴・裃・小袖・股引・足袋等の衣類や米・鰹節等の食料品、筆・硯・半紙等の筆記用具類、酒・茶・煙草等の嗜好品、茶碗・皿・鉢・蝋燭・雪駄・草履・針や糸などの日常生活用具等のほか、前任者との引継ぎ時の酒宴用の肴などが入ったお重等も持参してい多様です。


関所には、伴頭(関所の責任者)1名横目付(番頭の補佐役)1名以下定番3人の関所役人のほか、関所の近くに居住し、代々関所の様々な実務を行った「定番人」や、出女を調べるための女性の役人「人見女」、関所の掃除や柵の補修・点検などの雑務を担当した「足軽」15名、など常時20数名が務めていた。


箱根関所は、1869年(明治2年)に明治政府が全国の関所を廃止し。1922年(大正11年)には「箱根関跡」として国の史跡に指定され、1965年(昭和40年)には番所の建物が復元、その後、1983年(昭和58年)に遺構が発見された、慶応元年(1865年)に完成した大規模修理についての克明な資料をもとに、2007年(平成19年)に大番所、上番休息所、京口御門、厩(うまや)が復元整備を終え「箱根関所」として一般公開されたのです。


では個別に説明します (配布されたパンフレットより)


大番所 上番休息所
大番所には面談所と呼ばれる部屋があり、小田原から出向した関所役人のがこの部屋に詰め、ここを通る旅人の関所改めを行った関所の中心となる建物です。


上番休息所は大番所の南側に位置し、棟続きの建物。1か月交代で勤務する関所役人の日常生活の場として使われていました。

面番所
関所役人や常番人が詰め、部屋の前の縁側では、人見女が「出女」の取り調べを行っていました。


人見女
髪の毛の中も櫛を入れ隠し物がないか取り調べ

上の間
客間であり、人はいませんん旅人を脅すための道具鉄砲、弓が飾られていました


取り調べの様子


上番休息所
主に関所役人の就寝に使われました。

勝手板の間
囲炉裏があり関所役人の食事や休息に使われていました。部屋の奥には戸棚があり茶碗、汁椀、皿など様々な食器や持ち運びの用の灯など道具がしまわれていた


湯殿
風呂桶が置かれていたわけでなく、たらいに湯をくんで、湯あみしていました。


台所土間
関所役人の食事が造られていました。水屋の吊り棚には調理道具が置かれていました。



5頭の馬をつなぐようになっていましたが実際には2頭しかつないでおらず、空き部屋は掃除用具、火災時の道具などを置く納屋でした。


上番所所雪隠
役人専用で旅人は利用できません



京口御門
江戸口御門の反対側になります。方におおきさは江戸口御門と大差なかったそうです。


京口千人溜
旅人たちが関所改めを待つ待機所として利用された広場

矢場
弓や鉄砲の練習場で、江戸口御門の外側の湖側にありました

御制札場
関所の役割を記載した高札が掲げられていました

遠見番所
江戸時代旅人が芦ノ湖を通行することは禁止されており、この番所から足軽が昼夜を問わず交代で四方を大きな窓から芦ノ湖や沿道沿いを見張っていました。隣接する広場は芦ノ湖を一望できます。


足軽番所(下の建物が番所です)
大番所・上番休憩所向かい側、江戸口御門の脇にありました。昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。


建物内には足軽のための休憩所、関所破りをした人々の一次的に拘置する獄舎などがありました。

三つ道具建て
左から、刺股、突棒、袖からみという捕り物道具が、旅人を威嚇するように建てられていました。


江戸口御門 (写真がありません)
高麗門という形式で、その高さは大番所、上番休憩所をしのいでいます。
江戸方面から来た場合はこの門から仲が箱根関所の行内となり、この門の前で身支度を整え、関所の中に入りました。


江戸口千人溜
(写真はありません)
旅人たちが関所改めを待つ待機所として利用されました。


外繋
足軽番所と京口御門の間にあり、馬をつなぎとめるため、頑丈な太い柱と桁をくんだものです。(写真はありません)


関所の多くは西側、すなわち大阪方面と北陸(福井)、越後方面で、東北方面にはありませんでした。西には太閤戸外の大名が多いことが原因でしょうね。


関所破り
江戸時代、関所破りは重罪でした。
関所破りとは、関所手形を持たずに不法に関所を通過したり、迂回路を通って関所を越したりすること。
これを行おうとした者や手引きしたものは磔(はりつけ)などの刑に処されたのです。
しかし、記録ではたったの6人だけです。


関所破りの方法
1. 迂回路を通る
関所周辺の生活道路や山道を組み合わせて歩けば、関所を通らなくても通行は可能でした。


地元の百姓が小銭稼ぎに抜け道案内をしてくれました。
万が一見つかっても、道に迷ったと言えばよほど悪質でない限り、許してもらえたそうです。


2. 仇討ち承認証明
江戸時代の敵討ちは法的に認可されていました。
藩発行による敵討ちの許可証を入手できれば、関所はパスできたため、
中には許可証を偽造し、それらしい姿やフリで関所を通過する者もいたとか。


3.ワイロやコネ
関所の役人へのワイロも有効。
正当な通行手形を持つ女性でも、厳しい取り調べで裸にされるのを避けるため、袖の下を使ったそうです。


また、関所近くの宿屋の主人に心付けを渡し、宿屋の使用人になりすましてラクラクと関所を通過できたそうです。
支払った金は打ち合わせ済みの関所の役人にもきちんと還元されたそう。


4. 芸人特権を濫用
落語師、講釈師、義太夫師、太神楽などの芸人は、芸そのものが手形のようなものでした。
関所の役人を楽しませる芸を見せれば、通行可能だったとか。


5. お伊勢参りや湯治にかこつける
江戸幕府は伊勢神宮参拝や温泉湯治などを行う者には比較的寛容でした。
そのための幕府発行の「書替手形」があれば、身元確認済みということで関所を通過しやすかったそうです。
これを利用しない手はありません。


何かの事故で手形に不備があっても、粋な対応をしてくれる関所番はいたのです。
東側の門つまり江戸から来た女に「通せないから引き返せ」と言っておきながら、とぼけて西側の門を示して通してくれたこともあったそうです。


関所破りで捕まる原因は告げ口です。
袖の下を使ってうまく回避しなくてはいけません。
その他、宿帳の記帳内容が怪しい場合、手配書の人相と同じ場合に捕まりました。


関所破りが即刻磔(はりつけ)の刑に処されることは、幕府の「公事方御定書」に明記されています。


しかし、箱根で見つかった関所破りが磔になったのは250年間で6名だけ。
実際は、関を破る人は少なくなかったかもしれません。


江戸時代中後期は、商人の活躍と諸藩の特産品販売が盛り上がり、物流が盛んになると、諸国を分断する関所は邪魔になりました。


この関所像が通過したのです
享保13年(1728)、中国の商人から将軍へ献上する象が船で長崎に着きました。
 象は付き添いの役人とともに江戸に向かいました。途中、京の都で中御門天皇に拝謁し、従四位に叙せられました。さらに象の旅は続きます。翌享保14年(1729)5月、三島から箱根峠を越え、箱根宿に来たところで、疲れにより動けなくなってしまいました。
 大事な象が病気とあって役人は大いにあわてて「象の体調が悪い」という知らせを江戸に送り、象には好物のまんじゅうやミカンを与えて看病しました。
 そのかいあって、やがてゾウは元気になり、関所の門をくぐり、江戸に向かい歩きだしました。
 その後、象は無事将軍に謁見し、江戸の町民にも公開され、人気者になりました。

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