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日本大正村  明智城

日本大正村  明智城
住所:岐阜県恵那市明智町1884-3
☎:0573-54-3944
駐車場:あり 約50台  無料
中央高速恵那ICを下りて国道363号で向かいます。
かって単身赴任していました。


公共交通機関
明知鉄道 明智駅下車


営業時間
通常
9:00—17:00(入場受付:16時30分まで)
冬季
冬 期(12月15日~2月末日)
10:00—16:00(入場受付:15時30分まで)


ここを全て観るのはほぼ一日必要です。


入村料
有料施設共通券:大人(高校生以上)500円 小人(小中学生)300円
この共通券が便利です。
大正ロマン館・大正村資料館


ここから明智光秀の生誕地も近いので一緒に行かれるといいでしょう。


明智村役場
旧明智町役場は瓦葺き寄せ棟造り2階建ての木造洋館。
大正村内では、他にも旧郵便局の建物など、大正時代のモダンな雰囲気を堪能できます。

映画館

十六銀行
銀行蔵 隣りの大正の館
明治末期の建築で町のシンボルで恵那市文化財に指定されています。
資料館には、蓄音機やレコード・衣類・生活用品などさまざまな大正文化の資料が展示されています。


代官陣屋跡
元和元年(1615)旗本二代領主方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、かわりに城山下の大手門近くに陣屋がおかれることになった。


遠山家累代の墓所(写真ありません)
龍護寺の西側に、明智の旗本領主遠山氏代々の墓が十基並んでいる。
古くから東濃の豪族として、明智を領していたが1572年に武田軍に攻められ戦死した明智城主遠山景行から始まり、その次男遠山利景が徳川に仕えて関ヶ原の戦いで戦功を上げ6531石を受領し、旗本遠山氏初代となる。そして旗本11代領主遠山景高は安芸守となり浦賀奉行を務め、ペリーの日米和親条約などで活躍した。


また、遠山氏の墓が並ぶ正面に、江戸の名奉行『遠山の金さん』こと遠山金四郎の業績を称えて合祀されていると言われる墓所もある。


大正路地
蔵に囲まれた「大正路地」は、白と黒のコントラストが鮮やかな真っすぐの路地です。
黒い羽目板は桟を外すと防火壁の役目を果たします。
道は石畳になっていてレトロ感な景観を楽しむことが出来ます。


大正路地


うかれ横丁(写真はありません・紛失)


中馬街道・路地
中馬街道の一部で昔は旅人に酒や食べ物を売る色々な店が並んでいたそうです。昔の面影を残す曲がりくねった通りで、道を跨ぐ木造の100年以上の渡り廊下は必見です。



大正時代館
大正時代にこだわった資料館です。大正時代の象徴、大正天皇に関する展示や当時の標準的な家庭を様々な生活道具によって再現した生活情景展示の他に年数回の企画展示が行われます。


隣接する「カフェー天久」は大正末期から昭和初期に多くの文化人を常連とした当時そのままに今も喫茶店として現役です。



旧街道交差点

大正村浪漫館
明智駅から近い観光案内所のすぐそばにある「大正村浪漫館」は、2016年10月27日にリニューアルオープンしました。
1階はカフェとお土産販売、2階はお食事処があり、館内には段差もなく車いす対応トイレも1階と2階にあり、エレベーターもついています。


逓信会館


明智城




光秀公産湯の井戸


明智光秀公霊廟


八王子神社
住所:恵那市明知町1400-1
明智光秀手植えの楓が残る金幣社八王子神社
• 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
• 天之菩卑能命(アメノホヒ)
• 天津日子根命(アマツヒコネ)
• 活津日子根命(イクツヒコネ)
• 熊野久須毘命(クマノクスビ)
• 多紀理毘売命(タキリビメ)
• 市寸島比売命(イチキシマヒメ)
• 多岐都比売命(タキツヒメ)


949年平安時代創建鳥居をくぐると長い階段がありその先には唐門(明智城の城門を移築したと言われます)


拝殿は明智城とともに焼け落ち現在の拝殿は1648年に当時領主であった遠山伊次により再建されました。


光秀の母 於牧の方の墓所があります。
住所:恵那市明明智町1175-1

駐車場:5台程度
大正村から徒歩でもいくことできます。
墓所はそんなお牧の方のために寛保3年(1743年)に建てられたそうです。八代将軍、徳川吉宗の時代です。


信長から丹波平定を命ぜられ丹波八上城の波多野氏を攻め兵糧攻めにし自分の母を人質に差出開城させます。
波多野氏の助命を約束して安土へ送ったが信長は波多野秀治をはじめとする兄弟3人を磔にしてしまうのでした。


光秀の母は磔にされ、命を落とすことになってしまうのです。
そのため波多野氏の家臣は於牧の方を磔にしました。


この一件で光秀は信長を恨み、のちの本能寺の変の要因ともなったのかも
またまた謎
山県市中洞地区は、明智光秀が生まれた地とされています。
この地区の伝承によると、光秀は土岐四郎基頼と、中洞の豪族である中洞源左衛門の娘との間に生まれ、その後、明智城主明智光綱の養子となったと伝えられています。
誕生にまつわるものとして、中洞白山神社境内には、光秀の母が産湯の水を汲んだという井戸が残されています。


また、地区内を流れる武儀川には、光秀を身ごもった際に母が「生まれてくる子が男の子であれば、たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩があります。


光秀はこの地で生きていた!?


また、中洞地区の伝承では、本能寺の変のあと、山崎の合戦で討ち死にしたのは影武者であり、中洞に落ち延びて住んでいたと伝えられています。
光秀は郷里の中洞に落ち延びた後、山崎の合戦で討ち死にした影武者・荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」をとって、自ら荒深小五郎と名乗り、この地で暮らしていました。その後、慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦に参戦しようとした道中、増水した藪川(根尾川)で馬共に流されて亡くなったとされています。


中洞白山神社の林の中に光秀の墓とされる「桔梗塚」があり、現在まで地元の荒深氏一族によって大切に守り続けられ、年に2回(4月第2日曜日、12月第1日曜日)供養祭が行われています。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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