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岐阜県 大垣城

大垣城  
住所:岐阜県大垣市郭町2-53


別名
麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)
駐車場:コイン駐車
交通機関
JR東海道本線・大垣駅~徒歩10分


鉄門跡(くろがね)
移築先鵜沼の宿  公開済み


乾門

艮隅櫓


明応9年(1500年)竹腰彦五郎尚綱によって築かれた牛屋城が始まりともされるが、一般的には天文4年(1535年)宮川安定によって築かれた。


天文13年(1544年)尾張の織田信秀が大垣城を攻め落とし、織田信辰を大垣城主とする。しかし天文16年(1547年)には斎藤道三の軍勢が攻略して竹腰尚光を城主とする。
天正11年(1583年)直昌が没して弟行広が家督を継ぐと三塚へ転封となり、池田恒興が大垣城主となる。


池田恒興は天正12年(1584年)小牧長久手合戦で秀吉方として参加したが、この戦いで討死、家督を継いだ池田輝政は岐阜城へ転封となる。


池田輝政に替わって羽柴秀次(豊臣秀次)が大垣城主となるがすぐに近江に転封、替わって羽柴秀長が大垣城主となるも、天正13年(1585年)には大和郡山へ入封在城はわずかであった。(郡山は金魚の名産地_)
次に大垣城主となったのは加藤光泰であるが、これもわずかにして一柳直末が天正17年(1589年)まで大垣城主となった。


天正17年(1589年)には羽柴秀勝が大垣城主となるがわずか一年で岐阜城へ転封、天正18年(1590年)には伊藤盛景(祐盛)が大垣城主となり、このときはじめて天守があげられた。盛景が没すると嫡男盛正が家督を継いだ。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では石田三成の要請によって大垣城を明け渡し今村城に移った。
まあ、くるくると城主は変わった。


大垣城は昭和20年まで四層の天守が聳えていたが戦災によって焼失し、現在は鉄筋コクリート構造で復元されている。現在城跡にある構造物は同じく戦後に復元された艮隅櫓、乾隅櫓、西櫓門とかつての内柳門が東門として移築されている。この旧内柳門が本来とは別の位置にあるものの、城内に残る唯一の現存建物である。


本丸乾門(城門)
移築されておりここにはない。


清水口御門(城門)
移築されておりここにはない

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