岐阜県 中山道 鵜沼宿
2021年1月記事追加
大垣城鉄門
中山道鵜沼宿町屋館・脇本陣
月曜日は休館日
住所:各務原市鵜沼西町1丁目137番地
鵜沼宿(うぬまじゅく)は、江戸・日本橋から52番目の中山道中の宿場である
中山道は69次
正式な宿場となったのは慶安3年(1651年]
尾張藩領 人口は当時の記録では246人、家数68軒、本陣1軒・脇本陣1軒、
旅籠25軒
大安寺橋
(昔は八間橋という)がある。橋を挟んで東町と西町と呼ばれていた。常夜燈の脇に道標が立っていて、「太田町へ二里八丁」と記載されていた。 橋を越えると、鵜沼宿の中心部になります。
大垣城 鉄門
箱階段
階段の下に引き出しを付け収納に使いました。
庭園
酒造 菊川
高札場の一分
脇本陣を務めた坂井家は、本陣であった桜井家の西隣に位置し、文化年間(1804年から1818年)頃の街道の様子を描いた「中山道分間延絵図」には、本陣に隣接する脇本陣の門と切妻屋根の家屋の外観を見ることができます。
また、本陣桜井家に残された江戸時代中後期の鵜沼宿の記録である「鵜沼宿万代記」には、宿の世話役や多くの大名や役人などの接待を度々務めた、当主坂井半之衛門の名を見ることができます。
坂井家は、幕末の安政年間(1854年から1860年)になると脇本陣を東町の野口家に引き渡し、以後は一般的な旅籠として営業しながら明治維新を迎えました。
うだつ
本来は防火壁でした。
しかし格式を表すことになる
「うだつがあがらない」・・・・。
松尾芭蕉句碑(伝・芭蕉直筆)
俳聖松尾芭蕉は、貞享年間(1684年から1688年)に3度にわたり鵜沼宿を訪れ、脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。
特に貞享5年(1688年)に訪れたおりには、坂井家でふぐ汁と菊花酒の歓待を受け、主人からの求めに応じて即興で句を詠み、その句を自らが刻んだと伝えられる珪化木(楠の化石)の句碑を展示しています。
「ふく志るも 喰へは喰せよ きく乃酒」
芭蕉句碑
芭蕉が野ざらし紀行のさい(1685年)から更科紀行(1688年)まで3度脇本陣坂井家を
訪れたと伝えられています。
二ノ宮神社
住所:岐阜県各務原市鵜沼西町
江戸時代のはじめに鵜沼宿が開設されるにあたって、この場所に移転してきたものだとも言われています。 祭神は、坂道や村境を守るといわれる国狭槌命です。 棟札には、寛永6年(1629)や貞享4年(1687)のものが残っています。 東側の拝殿は、明治後期に建てられたものといわれ、農村舞台の特徴をよく示した建物です。
この石段の脇には古墳がありました。
赤坂地蔵堂
この辺りは宿場の入口にあたります。街道の宿場の多くは、防衛のために入口が鍵の手のように折れ曲がっていますが、鵜沼宿でも東の入口はこの地点で大きく屈折しています。 この地蔵尊は、宝暦13年(1763年)に女人講の人たちによって作られたものです。光背の部分には、『左ハ江戸併せんこうし道』、『右ハ在所みち』と刻まれています。道標としての役割もあったようです。
中山道鵜沼宿の脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891年)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。
脇本陣は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元されています。
史跡
鵜沼宿町屋敷(旧旅籠絹屋)
菊川酒造本蔵 豆倉 一号倉庫 二号倉庫
日吉神社(かえるの狛犬)
間の宿 新加納
細畑一里塚
六軒一里塚
大安寺
岐阜県各務原市鵜沼大安寺町
応永年間(1394〜1427)に笑堂常訢を開山、美濃国守護土岐頼益を開基として創建された古刹です。 臨済宗南禅寺派に属し、開山入寂後200年間は塔頭(境内にある末寺)が輪番で住職を務めていました。 江戸時代には臨済宗妙心寺派の寺院として再興し、鵜沼宿の本陣に万が一の事があった場合の避難先として大安寺が当てられていました。
少林寺
少林寺はこの地に陣屋を置いていた、旗本「坪内氏」の菩提寺で、近くに陣屋もあったらしい。