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四国八十八ケ所車で遍路の記録/ 第75番善通寺(ぜんつうじ)

空海の生まれ故郷
2020年1月19日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月19日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を
追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年8月2日に再度公開しました。


第1番から1166.9㎞
第75番善通寺(ぜんつうじ)
この日最期のお参り。このお寺は3度目のお参りとなる。
結婚前妻と1度、2度目は友人(当時東尾張病院職員)と参拝した。
 京都の東寺、和歌山の高野山と並ぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして有名。
高野山、京都東寺も数回訪れている。


住所:川県善通寺市善通寺町3-3-1番地
山号:屏風浦五岳山(びょうぶうらごがくざん)
院名:誕生院(たんじょういん)
宗派:真言宗善通寺派
創建:伝:大同2年(807)
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:薬師如来
☎:0877-62-0111
駐車場:有料、普通200台、大型20台
宿坊:ここにお泊りの場合は駐車料金かかりません
   私たちは宿坊で一泊いたしました。
   朝の御勤めもありました。 
   ここに駐車してからお寺の拝見に出かけました。
    宿坊:250人  事前予約 
交通機関
JR予讃線善通寺駅から約2km
高松自動車道・善通寺ICから国道319号を琴平町方面へ。約10分。


真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:我住まば よも消えはてじ 善通寺 深き誓ひの 法のともしび


まず仁王門から入りました。
ここから入るのが正規のルートです。


仁王門(におうもん)
西院(誕生院)の正門。門の正面左右には金剛力士像(仁王)があります。
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の製作です。
西側には大草履が奉安されています。
現在の建物は明治22年(1889)の再建。
この仁王門前の石橋は、昔は毎月20日にのみ通行できたということから「廿日橋(はつかばし)」と呼ばれています。

観智院 


空海記念碑(写真はありません)
駐車場の脇にあります
この記念碑は、昭和57年(1982)に日中友好とお大師さまの功績をたたえ、中国西安市の青龍寺に建立された「空海記念碑」を模し、翌昭和58年につくられたものです。


済世橋
丸い太鼓橋があります。
西入り口に架かっています。
境内西側の参拝者用駐車場から西院(誕生院)にかかる橋。昭和53年(1978)に、西門にあたる「正覚門(しょうがくもん)」と共に建設されました。橋の欄干には、真言八祖の名号をあらわす種子が刻まれています。
橋の由来は、弘法大師が中国に修行のとき洛陽の洛水に架かる天下の名橋、天津橋を渡られた故事によりここに天津橋を復元したとのことです。


それをわたるとバゴバ供養塔
金色の屋根の建物
パゴバ供養塔は、太平洋戦争中にビルマ戦線で亡くなられた全国18万有余の方々、また、ビルマ国独立のために戦死した人々、イギリス・インド軍の戦士の霊を合祀しています。昭和45年(1970)8月15日建立。
ビルマ=現在ミャンマーです。
ビルマの竪琴でも有名です。


産湯井 
弘法大師が御誕生された折に用いられた産湯の井戸です。
  


聖天堂 写真ありません
大聖歓喜自在天は歓喜天とも呼ばれます。あらゆる罪障を取り除き、富貴財福をも受けるとともに縁結び・夫婦和合・子授け等、その功徳は広大無辺といわれます。


光明殿 (写真はありません)
ここは納骨堂となっており、宗派は問わず納骨できます。


護摩堂  
不動明王がおまつりされています。
現在の建物は昭和15年(1940)に落慶されました。
堂内中央壇上に、不動明王坐像を安置し、その正面に護摩壇を設け得られています。
諸願を祈祷する「護摩」の修法が行われます。


親鸞堂 
浄土真宗の開祖、見真大師親鸞(けんしんだいししんらん)をおまつりするお堂です。
しかし、浄土真宗は般若心経は唱えません。


回廊
西院の回廊には弘法大師の歴史を描いた絵画が掲げられている。一見の価値があります。
ここを真っすぐ行きますと御影堂(大師堂)があります。


御影堂(大師堂)
御影堂のある誕生院は、弘法大師空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建てられた寺院です。現在の建物は天保2年(1831)の建立で、昭和12年(1937)に大規模な改修を行っています。
「御影」とは、一般的には祖師の姿をいいます。真言宗では弘法大師空海です。
大師信仰の聖地なのです。
内陣には公武大師の扁額がかかっています。
開祖をお祀りしているお寺には御影堂があります。
私の住んでいる三重県では真宗高田派の本山が津市にあり御影堂(親鸞上人)を含む諸堂が国宝に指定されました。                       

御影堂内部


戒壇めぐり
宿坊に泊まると朝の法話のあと戒壇めぐりができました。
左手を伸ばし、左側の壁をつたって「南無大師遍照金剛」と一心に唱えながら、歩きます。
中央広間には、弘法大師とその御両親、四国八十八ケ所霊場″のご本尊様をおまつりしています。
閣の中、実際に見ることはできませんが、両側の壁には密教におけるひとつの宇宙感である曼茶羅″にある三十七の仏棟が画かれ、足元には″四国八十八ケ所″のお砂が敷き詰められています。


戒壇巡りの最近での体験は奈良県信貴山のお寺で参加したが真っ暗で途中に小さなほこらがピンク色に輝いていました。


御影池(みかげのいけ)
佐伯家の方々がお住まいの頃は、その邸宅の庭にあった池でした。
中國へ留学するとき自身を水面に映し、自像を描いてお母さんに差し上げられたと伝わります。弘法大師が御入定後に住まわれるという兜率天(とそつてん)の教主である弥勒菩薩坐像を安置し、修行中のお大師さまとご両親の像がならんでいます。
 


五社明神(ごしゃみょうじん)
香川県天然記念物の大グスを背景にして、南北に並んで立つ2棟の建物が五社明神社です。。現在の社殿は、永禄元年(1558)の兵火後に再建された江戸時代前期のものです。
二つの社殿には五柱の神が鎮座します。北側社殿に大麻明神、大歳明神、蕪津明神が、南側社殿に雲気明神、広浜明神がそれぞれおまつりされています。いずれも、善通寺周辺の鎮守神を勧請(神仏を分霊しておまつりすること)したものです。


佐伯祖廟(さえきそびょう
お大師さまの父君・佐伯善通卿「佐伯明神」と母君・玉寄御前「玉寄明神」おまつりしています。


龍王社(りゅうおうしゃ) 
金堂の西側には池があり、その中の島に建つ小さな祠が龍王社です。水中にすみ雨を呼ぶ力をもつという善如龍王がまつられています。

三帝御廟(さんていごびょう)
「三帝」とは、後嵯峨天皇、亀山天皇、後宇多天皇のお墓です。
近年まで、伽藍の北100mほどの住宅地にありましたが、昭和39年(1964)に現在地に移されました。

南大門(みなみだいもん)
南大門は、東院(伽藍)の南に位置する善通寺の正門です。
私達は一度出て再度入りました。
現在の建物は日露戦争戦勝を記念して明治41年(1908)に再建されたものです。
高麗門と呼ばれる形式で造られており、高さは9.7mあります。正面上方には善通寺の山号である「五岳山」の扁額が掲げられています。
良く見えませんが。
意匠の細部に目をやると、てっぺんの棟積の水板部分には、龍・迦陵頻伽(かりょうびんか)・鳳凰が立体的にあらわされ、四隅の軒先には四天王像(南東:持国天、南西:増長天、北西:広目天、北東:多聞天)が鎮座しています。

鐘 楼  

二カ所ありました
一カ所は袴付き


五重塔(ごじゅうのとう)
基壇から相輪までの高さが約43メートルの五重塔は、国内の木造塔として3番目の高さを誇ります。創建以来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、明治35年(1902)に完成した現在の五重塔は、4代目となります。
塔の中には、密教思想の中心的存在である五智如来(五仏)が安置されています。そのうち4体は、1階の壇上、心柱を囲むように安置されています。東は白象にのる阿閦(あしゅく)如来、南は馬にのる宝生(ほうしょう)如来、西は孔雀にのる阿弥陀如来、北は金翅鳥(迦楼羅)にのる不空成就(ふくうじょうじゅ)如来です。そして、五智如来の中尊大日如来(非公開)は5階の厨子内に安置されています。


この五重塔には、一般的な木造多層塔とは異なるふたつの特徴があります。ひとつは五層、すべての階の天井が高くつくられ、人が立って歩けるようになっている点です。
この様な構造はめずらしく、以前は5階まで上がって眺望を楽しめたそうです。


毎年、ゴールデンウィークには1階と2階の内部が特別公開されています。
(拝観料:一般300円)。堂内を拝観できます。心柱が礎石から浮いている状態も
見ることが出来るそうです。


ちなみに、京都の東寺の五重塔は1664年再建で54.8mで全国一番です。(公開日は、初層のみ拝観できます。)
東寺も空海ゆかりの寺です。
また京都八坂の塔が49m(公開日は2階まで上がれます、また心柱も近くからみることができます。)・仁和寺の塔が32.7mあります。


金堂(こんどう)
善通寺の本堂である金堂は、伽藍(東院)の中央に位置します。創建期の建物は、永禄元年(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)に再建されたものです。
金堂内の中央須弥壇上には本尊・薬師如来坐像が安置されています。
御室大仏師・北川運長の製作で、元禄13年に完成しました。像高は3m。ヒノキ材による寄木造で、表面は漆地に金箔を押しています。また、眼には水晶を嵌め込んでまる生きているようです。
金堂の廻りには五百羅漢がずらり、雲辺寺よりは少ないと思われるが、壮大なもの、それぞれの顔も面白い。
金堂の上層に掲げている「大宝桜閣陀羅尼」(だいほうろうかくだらに)の額は流麗な筆跡が素晴らしい。

東院の境内には五百羅漢がずらりと並んでいる。                 
  
赤門(あかもん)
東門が本来の名称ですが、その朱色の塗装から「赤門」と呼ばれています。

釈迦堂(しゃかどう) 
仏教の開祖である釈迦如来と十大弟子を安置しています。現在の建物は江戸時代・延宝年間(1673~1680)建立で、もとは西院(誕生院)の御影堂でした。天保2年(1831)の御影堂新築にあたり現在の場所への移転されたものです。


足利尊氏利生塔(あしかがたかうじりしょうとう)
足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされます。

法然上人逆修塔 
(ほうねんしょうにんぎゃくしゅうとう)


西院(誕生院)方面を望む、正面の門は中門
袴付き二層門でめずらしいです。


善通寺は、弘法大師の生誕の地であり、真言宗善通寺派の総本山です。
善通寺は、和歌山・高野山の金剛峯寺、京都の東寺(教王護国寺)とともに弘法大師の三大霊場のひとつです。


大同2年(807年)、留学先の唐(中国)から帰国した弘法大師は先祖の氏寺を建立することを思い立ちます。
それで、豪族だった父から荘田を貰い受け、この地に唐の八カ霊場の土砂を撒いたといいます。
弘法大師はここに留学先である唐の青龍寺を模して堂宇を建立しました。
大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の佐伯直田公善通「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。


山号は、西に向かって連なる5つの山(香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山)に由来し五岳山とし、四国霊場に定めました。(当地はかつて「屏風浦」とも称されました)
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。
七堂伽藍が完成したのは、弘仁4年(813年)で、この時大師は金堂(本堂)を建て、薬師如来を刻み、本尊として安置しました。
永禄年間(1558~1570年)、兵火により本堂は焼失しましたが、本尊は焼失を免れました。
そして、本堂が再建された折、新たに雲長が薬師如来を刻み本尊とし、大師の刻んだ薬師如来を胎内仏としました。
総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、東院と西院に別れています。


善通寺ホームページ



本日のお泊りは善通寺宿坊「のいろは会館」
豪華な夕食

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