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大坂  四天王寺 四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺 (大坂)平成25年1月17日


住所:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
荒陵山(あらはかさん)
宗派:和宗 総本山
創建:推古天皇元年(593年)(『日本書紀』による)
開基:聖徳太子
別称:金光明四天王大護国寺
☎06-6771-0066
駐車場:あり

『日本書紀』に見る創建の経緯
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。


四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)


以上が『書紀』の記載のあらましです。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当であると思います。

寺内に駐車場があります



五智光院(重要文化財)


入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。元は西大門付近にあったものを明治34年(1901年)、本坊内の現位置に移築。大日如来を中心とする五智如来像を安置する。


石舞台

相輪塔ではありません。石造りの塔です。が 書かれていることわかりませんでした。

十三重の石塔

本坊方丈(重要文化財)
「湯屋方丈」とも証する。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。
残念ですが本坊は立ち入り禁止でした。

少し色がピンクがかっていますが、本当は赤色です。

相輪塔・・・東大寺に似ています。

中門
門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから「仁王門」とも呼ぶ。入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。







五重塔  鉄筋コンクリート造り

鐘楼

料金を払えば衝くことできます

ぐるりと朱塗りの回廊があります。

五重塔
現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目。
これ鉄筋コンクリート製なんですが、浅草浅草寺と同じ立派です。

六時堂

六時堂(重要文化財)
中心伽藍の背後に位置する。入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年)建立。椎寺薬師堂(境内北西、大江小学校付近にあった)を移建したもの。堂内には薬師如来坐像と四天王像を安置する。


手前の「亀の池」の中央にある石舞台は「日本三舞台」の一つとされ国の重要文化財である。この舞台では毎年4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
亀の池の中央に位置する舞台です。
住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台と並び、日本3大舞台の一つであり、毎年4月22日には雅楽が終日奉納されます。


この雅楽は奈良のものと並んで古い形態を残した貴重なもののようです。一度聴いてみるのもいいかもしれませんね。

石舞台横の堀


石鳥居(重要文化財)中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を忍性上人が勅を奉じて石鳥居にあらためたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と浮彫風に鋳出してあり、釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。

これ手でぐるぐる回します    お願い事・・・・・。



四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。


伽藍
境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。


中心伽藍
南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲している。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎(がいじろう)。


金堂
入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階(もこし)を付さない点が異なっている。内部には中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画がある。


本尊
四天王寺の本尊は、近世以前の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現本尊は救世観音と称されている。彫刻家平櫛田中の指導で造像されたもので、左脚を踏み下げて座す半跏像である。こうした半跏形式の菩薩像は右手を頬に当てる「思惟像」(しゆいぞう)が多いが、当寺の本尊像は右手の掌を正面に向ける施無畏印とする。なお、仏壇四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作である。


講堂
入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」(げどう)、東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とする。


その他の堂宇
聖霊院
中心伽藍の東に位置する一画で、「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築である。主要な建物は前殿と奥殿である。前殿は1954年の建立で、入母屋造妻入。聖徳太子孝養像(十六歳像、秘仏)を祀る。奥殿は1979年の完成で、聖徳太子摂政像(松久朋琳・宗琳作、秘仏)を祀る。一見法隆寺夢殿に似ているが、夢殿の平面が八角形であるのに対し、この建物の平面は完全な円形である。奥殿のさらに北にある絵堂(1983年完成)には杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。


元三大師堂(重要文化財)
寄棟造、瓦葺き。元和4年(1618年)建立。境内西北の墓域に位置する。


この他、境内には重要文化財の本坊西通用門をはじめ、大黒堂、英霊堂、南・北鐘堂など多くの堂宇が点在する。

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