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大阪城

大阪城 おおさかじょう 

平成25年1月17日訪問 3回目
住所:大阪府大阪市中央区大阪城1番1号
駐車場:大阪城公園 700円 
入場料金700円

駐車場から大手門よりも右手のほうが天守閣に近い 天守閣から大手門は近い


織田信長に抗していた大坂(石山)本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大坂と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大坂城の建築に着手した。



完成に約15年を要したその規模は、面積が現在の4~5倍という広大なもので、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。


しかし、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家滅亡とともに大坂城はすべて焼失してしまった。


江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大坂城の再建にのり出した。
10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大坂城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。


また、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失したまま再建されず、その他建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1868)の際の動乱で焼失してしまった。


昭和6年(1931)、当時の市長関一の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。


太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も一部被害を受けたが、戦後の全域の公園化と、昭和28年から44年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために平成7~9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。



駐車場から城内への道



太鼓櫓跡
ここは、もと二の丸南部への出入口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があった。


右側の石垣の上に太鼓を蔵する小さな二層櫓があり太鼓櫓と呼ばれていた。
創建は寛永5年(1628年)である。
この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の召集や出陣の合図に打ち鳴らされた。
明治元年(1868年)の城中大火で焼失した。

重要文化財 多聞櫓 たもんやぐら
大手門枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる大門を組み込んだ構造をしている。


この櫓は頭上に槍落としの装置があり、出窓を構え、矩折に続櫓が附設されている。
多聞櫓の名称の由来については諸説があるが、一般には松永久秀が大和国(今の奈良県)多聞城で初めて築いた様式とされ、塁上に築く長屋状の櫓をさす。


この櫓は現存する櫓中、最大の遺構である。
寛永5年(1628年)に創建され、天明3年(1783年)に落雷で焼失し、嘉永元年(1848年)に再建された。
構造形式/矩折一重一部楼門構え本瓦葺
面積 600.45㎡


(写真が見当たりません?)


写真右手筆者



天守閣 コンクリート製 EVまである 上り専用

現在の天守閣は、昭和6年(1931年)に大阪市民多数の浄財をもとに、「大坂夏の陣図屏風」の豊臣時代天守閣図をモデルに、鉄筋コンクリート造りで復興されたもので、わが国の天守閣復興の第1号である。
現在のものは史上3代目にあたるものである。

重要文化財 

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)
この井戸は水面まで約33mもの深さがあるとのこと。


井戸枠は一箇のくりぬき石で、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めりていた。


伝説では豊臣秀吉が、井戸水の毒気を抜くために黄金数枚を水に沈めたと言われていたが、近年の調査によってこの井戸は豊臣時代のものではなく、寛永元年(1624年)に掘られ、井戸屋形は同3年(1626年)に建てられたものと判明した。なお、この井戸はもとは黄金水と呼ばれていた。


大きな1枚岩 モデル妻


大手門・多聞櫓・千貫櫓
入口は表側を大手口、裏側を搦手口という。


大坂城には大手口に大手門(幕末まで追手門とも称した)、搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。


創建は元和6年(1620年)で天明3年(1783年)に落雷によって破損し、現在のものは嘉永元年(1848年)に大掛りな補修をしたものである。
門を入った溜り場を枡形という。


大手門枡形の巨石
大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれている。
大手門正面の見付石は表面積およそ29畳敷(48㎡)、推定重量108tもあり城内第4位の巨石である。


また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38㎡)、85tで第5位にあたる。


これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。


担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。


号砲
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。


1863年、幕府の命令により、美作みまさか津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎くだらせいじろうらが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。


明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午ひるのドン」の名で市民に親しまれた。


火薬節約その他の理由により大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。


空堀



石山本願寺推定地(写真はありません)
明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。


『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。


その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。


石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。


その後十一世蓮如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。


一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。


さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。


重要文化財 六番櫓 ’写真がありません
二の丸南側を固める隅櫓の一つである六番櫓は一番櫓と構造形式がほとんど等しく濠側に石落しを2ヶ所設け窓腰狭間、石狭間も多く開いて堅固な構えをなし、窓の内側には障子を建てて内室を画し、居住構えが完備している。


創建は寛永5年(1628年)で、天保年間(1830年代)に大修理を経て今に残ったものである。
構造形式/二重二階本瓦葺
面積/一階217.21㎡ 二階138.68㎡ 延355.89㎡


重要文化財 一番櫓 写真がありません?
南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。
もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)大改造され現在の姿となった。


青屋門  写真がありません?
大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和6年(1620年)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。


この門は、昭和20年(1945年)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和45年(1970年)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。


青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものと推定されている。



極楽橋
豊臣秀吉が築いたときは2層式であった。
山里丸と二の丸をむすぶ橋で、もとは幅3mの木造橋であった。


徳川時代の寛永3年(1626年)に創建されたが、明治維新の城中大火(1868年)の際焼け落ち、そのままになっていた。


その後昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
この橋の名称の由来は、大坂本願寺時代(16世紀)にまでさかのぼると推定されており、「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。
昭和58年(1983年)、橋の高欄と橋面修理が行われた。



京橋口
大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。


戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形ますがたには大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によっ     
て全焼した。


京橋口枡形の巨石
京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。


築城の名手加藤肥後守清正(ひごのかみきよまさ)をが運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。


肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。


重要文化財 桜門 さくらもん
帰宅時はここから出た。駐車場に近い


豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。


桜の馬場という地名も知られている。
おそらく、この付近に桜の並木があったと思われる。


桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永3年(1626年)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868年)で焼失した。
現在のものはその後明治20年(1887年)に再築されたものである。


なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和44年(1969年)の桜門修理の際、復元されたものである
構造形式/高麗門本瓦葺、柱真々5.15m

桜門枡形の巨石
本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられている。
桜門枡形にも大手口と同様、多聞櫓があったが、明治元年(1868年)の城中大火の際に焼失してしまった。


この枡形の築造は寛永元年(1624年)岡山藩主池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。


正面の石は蛸石と呼ばれる城内第1位の巨石で、およそ36畳敷(60㎡)推定重量130tもあり、左側のは振袖石といい、およそ33畳敷(54㎡)120tで城内第3位の巨石である。



残念石
両脇に鎮座しているこの石は元和6年(1620年)から始まる大坂城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、今なお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。


これらの石を、小豆島青年会議所が創立10周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである



重要文化財 千貫(せんかん)櫓
大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620年)に創建されたもので、昭和36年(1961年)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。
現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。


名称の由来については織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。


構造形式/二重二階本瓦葺
面積/一階199㎡ 二階143.32㎡ 延342.32㎡


重要文化財 乾櫓
西の丸の乾(戌亥)すなわち西北の方角に建つ隅櫓で、L字形、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)という非常に珍しい構造をもっており、昔は「三方正面の櫓」とも呼ばれた。


徳川幕府による大阪城再築工事の初期、元和6年(1620年)に小堀遠州の総指揮のもとに建てられたもので、千貫櫓とともに、現存最古の建造物である。


構造形式/矩折二重二階本瓦葺
面積/一階、二階とも170.68㎡ 延341.36㎡


重要文化財 焔硝蔵(えんしょうぐら)×
徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていた。


創建は元和6年から8年(1620年~1622年)頃で当初は土蔵造りであったが、青屋口内の焔硝蔵が万治3年(1660年)に落雷で大爆発をおこしたため、のちに工夫がこらされ、貞享2年(1685年)に現在の石造りの焔硝蔵が築造された。
床、壁、天井、梁などすべて花崗岩で構築され、壁の厚さは約2mもあり屋根は寄棟造りの本瓦葺き、屋根の下は土を積み固めている。


石造りの火薬庫はわが国では他に例のない貴重な遺構である。
構造形式/石造一重寄棟造本瓦葺
面積 175.56㎡



豊國神社の由来  城内にあります  

(写真はありません)?


当豊國神社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。


明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった砌、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されたのである。


大正元年府立図書館の西方の公園内に移転し大正10年に別社から独立して府社に列せられたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたので、現在宗教法人となって神社本庁所属の神社となる。


昭和10年頃より大阪市の発展に伴い市庁舎増築に必要の為、隣接する当神社の移転の議が起こったが、太平洋戦争に突入した為、移転の件は一時沙汰止みとなった。


その後昭和31年大阪市より神社移転の要望が再開されたので、祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定、昭和36年1月中之島より奉遷したのが現在の神域である。


最後迄お読み頂きありがとうございます。

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