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奈良 吉野山 金峯山寺・吉水神社(吉野皇居)義経、静御前悲しい別れの場

金峯山寺
住所: 奈良県吉野郡吉野町吉野山

大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を山桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。


これが金峯山寺の開創と伝えられています。  明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。


山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして金峯山寺本堂蔵王堂及び仁王門がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
                   出所 金峯山寺ホームページより


吉野皇居の跡地

日本最古の書院 義経・静御前潜居の間
「義経潜居の間」「弁慶思案の間」と呼ばれている座敷がある。
1185年、義経は兄頼朝の追手から逃れ、静御前や弁慶と共に吉野山に潜入したことは歴史上で有名ですが、その潜伏先がここ吉水神所。


義経一行は、山伏姿に身をやつしてさらにここから南へ下ったとされるているが、静御前は共に行くことなく、ここが永久の別れとなった。その後静御前は京都に行く。
その後はこのページ後段を参照

後醍醐天皇の玉座
1336年、後醍醐天皇は京の花山院より逃れ、吉野に潜伏して再起を願う。
南北朝の歴史。

天皇は悶々とした日々を憂いながら、図らずもついに病となり悲憤の最後を遂げる。

豊臣秀吉が花見の時本陣として利用しました。

秀頼寄進

千本桜の見晴らし


 


                         
吉水神社
豊臣秀吉が盛大に花見を行いました。
豊臣秀吉の花見といえば.その最晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の醍醐寺・三宝院裏の山麓において催した花見の宴が有名ですね。
このとき花見は、豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯とともに秀吉一世一代の催し物として知られています。


この醍醐寺の花見の数か月約5か月後に亡くなるのですね、人間の運命てわかりませんね。61歳の波乱万丈の生涯でした。


ところで、吉野山の花見は文禄の役(朝鮮征伐、国内では武士に領地を与えられないことから他国の土地を奪い取って分け与えるという無謀な行動に出たのです。


これが朝鮮との確執の始まりとなったと私は思います。)の真っただ中に行われたものであり、秀吉は徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れて吉水院(吉水神社)を本陣(跡地があります)とする盛大な花見の宴を催し、ここには5日間滞在し、そのとき、歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといわれる。(しかし、そのうち3日間は雨で秀吉は不機嫌、僧侶を呼び祈祷させたほど。)


数年後に行われた、醍醐の花見を大幅に上回る豪勢なものだったとか。吉水神社に、一目千本という看板があるところは、その名の通り、中千本、上千本の山桜が一望できる秀吉もその景色を見て、「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだといわれます。


この場所は、吉野皇居と呼ばれていました。ご醍醐天皇の玉座があり。また義経・静御前潜居の間もあります。


金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
  重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。


  金峯山寺内では古くから、白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また、奈良時代に行基菩薩が改修されたとも伝えています。


その後、平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年(1592)頃に完成したものです。大正5年から13年にかけて解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。
                   金峯山寺ホームぺジより
                          
静御前の京都行の物語
吉野で義経と別れ京へ行くことにしましたが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られています。
同年4月8日、静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。 


• しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


意味は
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)
と義経を慕う歌を唄い、頼朝は激怒するが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けました。頼朝も妻には弱かったのですね。


しかし、この時、静はすでに義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。


磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められ殺されてしまったのです。磯禅師はこのままでは親子ともども殺されてしまうと思われたのではないか。 


9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたとい伝わっていますが、静御前のその後の消息は不明となっています。


今でも鶴岡八幡宮で静御前の舞が舞台で執り行われています。

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