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古都京都巡る 豊国神社(豊臣秀吉)徳川陰謀の方広寺

2021年10月6日記事修整正及び加筆しリライトしました。
豊国神社  とよくにじんじゃ
住所:京都府京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
祭神:豊臣秀吉
電話:075-561-3802

唐門(国宝)
元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築された。以心崇伝が寛永4年(1627年)に江戸幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、その前は伏見城にあったとも伝えられ、桃山期のものであるようです。


京都三唐門の一つ
他に
西本願寺 唐門
大徳寺 唐門(非公開)


やはり秀吉は千成ひょうたん。

 彫刻は左甚五郎作

  拝殿  奥が本殿

本 殿   

柵があり神社内の拝観はできません。


豊臣秀吉の遺体は火葬されることもなく、伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(1599年)4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された。埋葬場所は、秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していました。


この神社の隣には、方広寺がありこの寺に問題の鐘がありますが、この辺り一帯は大仏殿の敷地でありました。古図が残っています。


豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られたが大坂夏の陣後、徳川家康の手で取壊された。家康は秀吉が嫌いだったのですかね。また秀頼の人気、才覚に嫉妬していたのかも、このままではいつか自分が滅ぼされる、と恐怖心があったのかも。


しかし秀吉の妻北の政所(ねね)には特別の親しみがあったようです。これは、京都・高台寺の北政所(ねね)の御廟をご覧になるとよくわかります。床は漆塗りで祭壇の地下には今も北政所(ねね)が眠っています。家康の援助もあったようです。


朝廷から秀吉自身の望み(八幡神)とは相違して「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号が与えられました。
大明神となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったのではないかと思われています。


そういえば、家康も、大権現の神号ですね。


なお徳川家康の意向により方広寺の鎮守とすべく、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、神社自体も廃絶された。もはや神ではなくなった秀吉には「国泰院俊山雲龍大居士」という仏教の戒名が贈られた。秀吉の霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:豊国神社宝物館後方に遷された)


滋賀県竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は創建時の豊国神社社殿を移築したものと伝えられています。


明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されたのです。
現在の同神社の社殿は1880年(明治13)に再建されています。


国の紋章は桐の紋所ですね。内閣官房長官の発表するデスクも桐紋です。
豊臣秀吉の家紋は「桐紋」と呼ばれるものですが、五 三の桐。


桐紋は日本政府や首相官邸にも使われている紋章としても有名ですが、なぜこうした所で秀吉の家紋が利用されているのか不思議であります。
この紋章はもともと菊紋とともに天皇家のみが使っていたものでした。


桐紋の「桐」とは、古代中国の神話の鳳凰が止まる木とされていて、昔から神聖なものとして扱われていました。こうした風習が日本にも伝わり、日本でも800年頃から天皇の衣類などに使われるなど、皇室のみが利用できる格式ある紋章として使われていたそうです。


徳川家康は自分の家紋に権威を持たせるために、三つ葉葵紋の使用を徳川将軍家および徳川御三家に限るといった方法で武家社会の規律を充実させたのです。


秀吉は、信長の家臣時代は「五三桐」を用いていましたが、姓を豊臣と改めた時に「五七桐」を当時の後陽成天皇から与えられたので紋を変更しました。ほかにややこしいですが
「太閤桐」というものを後期は使用していたようです。


随分横道にそれました。


話を戻すと
方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成しました。


神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されました。


阿弥陀ヶ峰山頂は東山のプリンセス通りを登って、豊廟参道を行くと山頂にあります。
大きな五輪塔があります。


境内の宝物館には秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)もありますが見たことはありません。



方 広 寺
住所:京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
山号:無名
宗派:天台宗
本尊:盧舎那仏
創建:文禄4年(1595年)
開山:古渓宗陳
開基:豊臣秀吉

方広寺の創建者  

  百人一首の一人

白く塗られているところが 問題の文章です。

鐘楼の隅の置かれた遺品の数々。無造作に置かれていました

釣鐘の白く表現されたところが、問題の箇所 「国家安康」「君臣豊楽」


大黒堂

京都国立博物館、三十三間堂前まで続く大きな石組み


方広寺は古くは大仏殿と呼ばれていました。


秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行われました


天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われたようです


千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院(三十三間堂の道路を挟んで北側、三十三間堂も本来妙法院)に残る。当時の敷地は広大なものであって、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館(三十三間堂の前)、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣遺構です。



豊国神社の前には、耳塚(朝鮮戦争の時武将が首の代わりに打ち取った敵の耳、鼻も塩漬にして持ち帰ったものです。


三十三間堂南に遺る太閤塀や南大門(豊臣秀頼が築造)
これについてはまた別にご紹介します。


東寺の南大門は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築されました。
南大門はTVドラマによく出てきますね。


また造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったといいます。造営期間短縮のためか、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠」で造られました。


しかし、大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊してしまい、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられています。


豊臣秀頼は慶長4年(1599年)銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿が焼失。
慶長13年(1608年)より再建が開始され慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成しました。


次に慶長19年(1614年)には梵鐘が完成、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなったが、家康は突如同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまった。この話は有名です。


大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされたようです。またこの大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。


江戸時代後期の天保年間(1830年 - 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興されたが、またもや1973年(昭和48年)の火災により、天保再興の大仏は焼失してしまいました。



梵鐘(国家安康の鐘)重要文化財
慶長19年(1614年)京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンもある。
東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされています。



本尊盧舎那仏坐像
江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像(肩より上、頭部のみ)が寄進されたが、1973年(昭和48年)失火による火災により焼失した。大仏は台座の一部などが現存する。大仏殿の遺物としては他に柱の金輪、屋根の軒先に吊されていた風鐸が残されている。同寺の本堂内に陳列されています。


方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔(国の史跡)
石塁は方広寺旧境内を区切っていた石積みで、京都国立博物館西門から北に遺存している。石塔は豊国神社西方にある通称「耳塚」と、同神社境内東南にある通称「馬塚」
2基とも五輪塔です。1969年(昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」の名で国の史跡に指定。2014年(平成26年)に大仏殿跡が追加指定されました。


余り広くないので数十分あれば見れます。

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