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滋賀県の旅 日牟礼八幡宮~八幡山城(豊臣秀次)~八幡堀(時代劇ロケ地の定番)

ここは集中して有名な古刹があるので1日で回ることができます。
日牟礼八幡宮~八幡山城~八幡堀


日牟礼八幡宮 ひむれはちまんぐう
住所:滋賀県近江八幡市宮内町257
祭神:誉田別尊・息長足姫尊・比賣神
創建:成務天皇元年(131年)
電話:0748-32-3151
駐車場:あります

楼門

楼門上部の彫刻


拝殿

本殿

平安時代の中頃に九州の宇佐八幡宮から分社化されて生まれた八幡宮です。宇佐八幡宮と同じく、誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめがみ)の三柱の神々をお祀りしています。


古くから地元の人たちの守り神として信仰されてきましたが、特に中世以降は商人によって手厚く信仰されました。そのため神社には、歴代の有力な商人が奉納した宝物などが残されています。特にベトナムに進出した近江商人、「西村太郎右衛門」が奉納した「安南渡海船額」は社宝となっています。

能舞台


絵馬堂 「西村太郎右衛門」が奉納した「安南渡海船額」
 絵馬額の募集をしていました。


国の無形民俗文化財に指定された「近江八幡の火まつり」
日牟禮八幡宮の例祭である『左義長まつり』と『八幡まつり』、そして『篠田の花火』など、滋賀県近江八幡市で行なわれる火を用いる行事の総称です、私たちは、5月に行われる『篠田の花火』は見たことがあります。花火が和花火と言ってとても古いものです。そこでも大たいまつを焚き盛大な花火なんです。


日牟禮八幡宮は、毎年3月に行われる左義長祭りや、4月に行われる八幡まつりが全国的にも有名です。なかでも左義長まつりは火除けのお祭りで、戦国時代にあの織田信長も参加したとも伝わっています。


飾り付けられたたいまつ(左義長)に火をともし、それをもって町中をめぐるにぎやかな様子は、近江八幡市の春を象徴するものです。


八幡まつりでもたいまつが登場します。中には10メートルにもなる巨大なたいまつもあり、夜になると一斉に火がつけられます。琵琶湖のほとりで巨大なたいまつが燃え盛る様子はとても幻想的となるものと言われます。


日牟禮八幡宮の『左義長まつり』は、織田信長が安土城下で毎年正月に行なったものが近江八幡に継承されたものである。
織田信長は、天正9年(1581年)の正月には、「馬廻は爆竹を用意し、頭巾・装束を結構にしつらえ、思い思いの出立ちにて15日に出仕すべし」との触れを出し、さらには左義長当日、信長自ら「黒の南蛮笠に描き眉、赤色の礼服に唐錦の側次・虎皮のむかばきといった出立ちで入場」と信長の家臣・太田牛一の記した『信長公記』(巻十四)に記されている。


そんな天女をイメージした女装という信長ならではの奇抜なアイデアは、今も近江八幡では男衆が女装してまつりを行なうかたちで継承されています。信長は尾張の時代から川を堰き止め魚とり、女を集めて相撲を取らせたり、奇抜なことだ大好きでした、ですからこの左義長祭りは昔からまさに信長ゆかりの天下の奇祭というわけなのです。


左義長とは、新わらで編んだ3mほどの三角錐の松明(たいまつ)の上に数mの青竹を立て、赤紙や薬玉、巾着、扇などで飾ったものをいいます。


しかし、残念ですが私はこの左義長祭り、八幡祭りは見たことはありません。
今年2020年の予定は
2020年3月14日(土)〜3月15日(日)、近江八幡市の日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)
今年は駐車場からシャトルバスはないそうです。

左義長に使われる松明

左義長祭りに使われる 常設で展示されています。



八幡山城(現・滋賀県近江八幡市)
豊臣英次の居城

ロープウエイで上ります。
瑞龍寺(村雲御所)
八幡山(271.9m)山頂にある八幡城本丸跡の寺院。日蓮宗。安土・桃山時代に、豊臣秀次の母であり秀吉の姉である瑞龍院日秀尼公が、秀吉に自害させられた秀次の菩提のために、京都の村雲に創建しました。


そのため俗に、村雲御所と呼ばれています。のち、昭和36年(1961)に現在地に移されました。日蓮宗では唯一の門跡寺院。
石垣を左右に控えた山門が、八幡山城の盛時を偲ばせており、寺内にある釈迦三尊像や観音菩薩立像が寺院の歴史を物語っています。また、京都から移された庭園は名庭として知られています。


山麓からのロープウェイの利用が参詣には比較的便利で、眼下南側には碁盤の目状に区画された近江商人の町並みが広がります。遠くには三上山(432m)、鈴鹿連山を望み、東麓の水郷から続く琵琶湖の眺望は市内随一といわれています。

開山塔

 山上からの眺望


豊臣英次の功績とその生涯
天正19年(1591)に実子の鶴松が亡くなると高齢の豊臣秀吉は実子の誕生を諦めたのか、甥(姉の子)の秀次に関白職と関白の政庁である聚楽第を譲りました。


秀吉が唐入り(朝鮮出兵)に専念する一方で、秀次は真面目に国政を行いました。
秀次にとっては祖母にあたる大政所(なか)の葬儀の実務を行ったのも、実は秀次です。喪主は秀吉です。


しかし、文禄2年(1593)に実子の秀頼が生まれると九州から飛ぶように立ち戻り、秀頼を後継者にするため文禄4年(1595)に「秀次に謀反の疑いあり」として高野山へ追放し、自害させました。


終戦までは侵略が美化され、朝鮮へ出兵した秀吉を英雄視していました。その反動で、歴史上の「英雄」である秀吉によって切腹を命じられた秀次は、秀吉の甥という血縁だけで関白職を継ぎ、秀頼誕生により後継者になれないことで自暴自棄に陥り、悪行を繰り返し後世の人々から「殺生関白」と呼ばれるようになり、切腹を命じられたと考えられています。しかし、真実は別のところにあると思います。



最近では彼の「殺生関白」と呼ばれるような悪行には一切裏付けがなく、逆に地元ではよい殿様として慕われていたのです。後日英次を切腹させたことを正当化するために作られたのではないかと考えられています。特に石田光成が怪しいと私は思います。英次が関白のままでは自分の出世は望めないからです。


秀吉はこの英次の子孫を根絶やしにするため、すべての女子供30数名をすべて処刑しています。この時英次の首が据えられていたというほどで、見物の民衆もさぞ驚いたことと思います。よほど秀次人気が恐ろしかったのか光成の仕業なのかわかりませんが。


聚楽第や八幡山城など、秀次が住んでいた場所は徹底的に破壊されました。
聚楽第が秀吉の造った建造物として有名なのに、まったく遺構が残っていないのはこのためではないでしょうか。非常に興味あります。


このことから次第に豊臣家は衰退していくことになり、うまく徳川家康にしてやられたということですね。家康は多くの子供を作っていますよね。この子供を授けられた大名も大変だったと思います。



八幡堀


水郷は全国初の重要文化的景観
江戸時代から続く、風情あふれる街並みは、時代劇の撮影スポットとしても人気で、これまでたくさんの映画やテレビドラマの撮影行われた。特に時代劇では定番です。


幅約15メートル、全長6キロメートルの八幡堀は、水運の町として近江八幡が発展するきっかけとなった人工の水路です。
安土桃山時代に、豊臣秀次が八幡山城を築城した際、市街地と琵琶湖を結ぶ水路として造営したのです。商業の発展と城下町の防御の2つの役割を持っていました。


近江八幡には、この他にも西の湖という琵琶湖の内湖があり、葦の生えた水路をゆったりと船で観光する「水郷めぐり」が有名です。都会の喧騒から解放された時間が楽しめます。



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