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古都 京の都路 北野天満宮 三光門の不思議 右大臣菅原道真公京都へ帰還

北野天満宮
住所:京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
創建:天暦元年(947年)

祭神:菅原道真公


2の鳥居  鳥居が途中でつないである。これは日光東照宮にも同じ方式の鳥居がある。


醍醐天皇が即位すると、時平は道真とともに左右大臣に並んだ。だが、時平は次第に道真と対立し、先代の宇多天皇時代に重用され強力な後ろ楯ともなっていた、その宇多がいなくなった道真の排除に動く。そして901年、遂に道真を讒言して大宰府に左遷させることに成功した(道真57歳)、その後、国政改革に意欲を燃やしたが、摂政や関白になることもなく、その意味であまりいい目をみないまま、わずか39歳の若さで亡くなってる
藤原時平の生没年は871(貞観13)~909年(延暦9年)。道貞公は延喜3年(903年)に大宰府で非業の果て没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これらが道真公の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没20年後、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。


注:その後、左大臣藤原時平はどうなったのかを調べてみました。時平自身、その後、国政改革に意欲を燃やしたが、摂政や関白になることもなく、その意味であまりいい目をみないまま、わずか39歳の若さで亡くなっている。
藤原時平の生没年は871(貞観13)~909年(延暦9年)


現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(甥)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿を造営しました。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られました。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受た。 以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院ど)の社僧が、代々神官を務めることとなた。 
中世の時代には、菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡る確執が起こり文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退しました。


天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側には史跡「御土居」がある。どちらかと言いますと、この秀吉の「御土居」が有名ですね。秀吉はとにかく目立ちがりやですね。また権力の保持に躍起だったのではないでしょうか。
徳川家康に侮れないためにも必要でなかったのではないでしょうか。秀吉の強みは堺の商人との結びつきを重要視していたのです。


本殿、石の間、拝殿、拝殿の左右に「楽の間」楽の間(合1棟)
いずれも国宝国宝に指定されています。
慶長12年(1607年)に建立。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟としての構造となっています。屋根はすべて檜皮葺き権現造社殿で
ある。


楼門

楼門の額には平安時代の学者大江匡衛が藤原道真に捧げた願い文「文道大祖 風月本主」の文字が書かれている。

楼門の扉(菊の代紋が掘られていました。

中門(三光門)(重要文化財)

三光門なのに

太陽、月の彫刻はありますが星の彫刻はありません。

これは京都大極殿から北にあたり北極星が輝いていたから!


拝殿(国宝)
多くの人が順番を待っている 

拝殿 蟇股の牛の像 この神社では唯一牛の立像

本殿の様式 権現造

裏の社 普通神社は前拝のみであるが本殿の裏にも御后三柱という御神座があった

楽の間(国宝) 石の間 

西回廊(重要文化財)


宝物殿  上の写真は外部から  下は内部から外部を見る

史跡御土居
北野天満宮の境内西側には、天正19年(1591)豊臣秀吉が洛中洛外の境界また、水防のために築いた土塁「御土居」の一部が残り史跡に指定されています。
残念ですが写真が見当たりません。

絵馬堂

絵馬は十数枚かかっています。すべて古い時代のもの。
写真は後5枚ほどありますが省略します。
算額 - 貞享3年(1686年)今西小右衛門重之、飯田武助正成奉納 絵馬堂に掲額。
算額 - 1878年(明治12年)新名重内・三室戸治光・倉橋泰清など11名が奉納。絵馬堂に掲額。


丸い梅をあしらった釣り灯篭

多くの牛の像があったがこれが一番大きい  銅板葺きの屋根がある


最後迄お読み頂きありがとうございます

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