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岐阜県  真禅院  南宮大社近く

2021年10月17日記事修正しリライトしました。
南宮大社に初詣の時立ち寄りました。
真禅院      
住所:岐阜県不破郡垂井町宮代2006 
山号:朝倉山      南宮大社西方約400mのところにある
創建:天平11年二月(739年)
開基:行基菩薩
宗派:天台宗
☎0584-22-2212
駐車場:有


紅葉の隠れた名所


真禅院は、近隣(約400m)にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院である。南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた。


明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され、朝倉山真禅院と称するようになったものである。


伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)行基により創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)であるとされる。その後、延暦年間(790年頃)、勅令があり、最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、神宮寺と改称したという。宮処寺の名は『行基年譜』に見えず、創立者を行基とするのは後世の付託と思われるが、後述のように宮処寺という寺院が奈良時代に存在したことは確認できる。


『続日本紀』天平12年(740年)12月条には、「幸宮処寺及曳常泉」(宮処寺及び曳常泉を(聖武天皇が)訪れた)との記事がある。これにより、天平12年の時点で今の岐阜県垂井町に「宮処寺」という寺院が存在したこと、聖武天皇が同寺を訪れたことは史実と認められる。垂井町内には宮処寺跡に比定される奈良時代の寺院跡があり、岐阜県の史跡に指定されている。ただし、この寺院跡は発掘調査未了のうちに宅地開発が進んで遺構が破壊されており、この寺が南宮神社の神宮寺の前身であるかどうかは断定できない。


『扶桑略記』天慶3年(940年)正月24日条には「美濃国中山南神宮寺」において、延暦寺の僧・明達が平将門調伏の修法を行ったことが見える。これにより、平安時代は南宮神社に神宮寺が存在したことが明らかである。神宮寺は近世末まで存続したが、前述のように明治時代初期の神仏分離に伴い廃絶した。 


南宮神社内には神宮寺以外にも仏教僧の住む坊舎が複数存在したことは古絵図等からも明らかで、真禅院はそうした僧坊の1つであった。


近世の記録(「本末分限改帳」)には、平将門の乱調伏のため、南宮神社二ノ宮の十禅師社に社僧10名を置き、その時建立された僧坊の1つが真禅院であるとされている。


文亀元年(1501年)、火災で焼失し、永正8年(1511年)、美濃国守護土岐政房により再建。慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失した。


南宮神社の再建は江戸幕府3代将軍徳川家光により実施され、寛永19年(1642年)に落成した。これが現存する南宮大社の社殿群である。現存する真禅院の三重塔、本地堂もこれら社殿と一連の造営になるもので、元来は南宮神社境内の南方に建っていた。


明治元年(1868年)、神仏分離により、南宮神社内の寺院・仏堂を統廃合し、当時の真禅院の住職と地元の人々の手により現在地に移築した。明治4年(1871年)までに移築が完了し、朝倉山真禅院として再出発した。

三重塔: 国重文化財
寛永19年(1642)建立。総高25.38m。本尊大日如来。
昭和60年解体修理完工。                
草創:天平13年(741年)
 再建:寛永20年(1643年)
 7月落成
 高さ:25.38㍍
 初重: 4.394㍍
 二重: 3.955㍍
 三重: 3.368㍍
 心柱:20.34㍍
 現在の三重塔は、約370年前の再建です。


慶長5年(1600年)9月15日(新暦10月21日)関ヶ原合戦時、南宮山には西軍の毛利秀元(注:1)・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親ら27,900人が陣取っていました。この時に南宮大社及び神宮寺の諸堂社は、兵火により消失しました。


関ヶ原合戦後、南宮権現執行利生院永純(現橋本氏)が同じ天台宗の僧である東叡山寛永寺住職慈眼大師天海大僧正(注:2)等に再建を嘆願し、戦火より40年後に三代将軍徳川家光より金7000両を支給され、岡田将監(しょうげん)造営奉行(注:造営は、幕府大工頭木原杢助(もくすけ)が各種殿堂の仕様書・木割帳・絵図面等を作り、京都・江戸・名古屋等より寺社建築に経験ある者を集め、幕府工事の一環として行われました。


 起工に先立ち、寛永17年(1640年)8月に幕府大工頭木原杢助の立会いの下に商工業者・諸職人を集めて見積・入札を行い、入札を行った職種は、大工をはじめとして木引・手伝・鍛冶・檜皮師・瓦師・石工・塗師・飾師・彩色・畳師・指物師・材木商などです。


寛永17年(1640年)9月19日起工、寛永19年(1642年)9月11日に再興され、翌9月12日に遷宮式が執行された。春日局が家光の代参で来ています。


三重塔のみは京都の石材商 久保権兵衛の一括請負であった。
 (造営費1111両1分1朱)(日本初の請負工事)
三重塔だけは1年後の寛永20年(1643年)7月に落成。)のもとようやく造営の運びとなりました。


本地堂  重要文化財
再建:寛永19年(1642年)9月11日
桁行4間(9.9㍍)
梁行3間(7.6㍍)
一重の入母屋造妻入り造り
明治の移築時に、檜皮葺を棧瓦葺屋根に改められた。
国重要文化財である現在の本地堂は、約370年前の再建です。

釈迦堂

本堂


薬師堂

縣魚

ここにも三つ葉葵の紋がありました
また何故か鬼の木彫り彫刻があり目が光っている。(三つ葉葵門の下)


山門の右手奥には十王堂。閻魔王をはじめ冥土で亡者の罪を裁く十人の判官、即ち
十王を祀っている御堂です


境内左手の御堂。手前から最勝寺観音堂・釈迦堂・薬師堂


師堂から右へ護摩堂・本地堂・観音堂と3つの御堂が建ち並んでおります。本地堂は
国重要文化財で17世紀中頃の寛永年間の建立。観音堂の本尊十一面観世音菩薩像は
秘仏で、10年に1回開帳されるそうです。次回は2020年4月とのこと。平成32年4月


軒瓦にはみつば葵の紋章がありました。
写真はありません。


蟇股にはそれぞれ彫刻が施されている。


鐘楼
重要文化財
年1回
除夜の鐘のみ衝くことができる
奈良時代後期(美濃国最古の鐘)
<東海地区最古の鐘>
総高:165.0㎝
鐘身:129.0㎝
口径:100.7㎝
厚さ:8.5~9.5㎝
京都橘大学 文化財学科 五十川伸矢教授 調査(調査日:平成18年7月16日)


〔梵鐘調査結果〕
 奈良時代に奈良の地でつくられた梵鐘、かなり大きいので特種な技術集団により作製された梵鐘
  ・鋳込みあと(湯道末端部切断痕跡2箇所の位置 : 奈良時代 はじ 横にある)
  ・鋳型の継目(奈良時代 3段)
  ・撞座(しゅざ)軸に対し竜頭(りゅうず)軸が直角に交叉(撞座の面でいうと竜頭側面と平行)
  ・撞座(しゅざ)の位置(古い時代の鐘ほど撞座の位置高い 奈良時代:平均37%)
  ・袈裟襷(けさだすき)の紋様および幅の広さ(古い時代の鐘ほど幅が広い)
  ・乳(にゅう・ちち)を囲む紋様等による結果


竜頭(りゅうず)  写真はありません
竜の頭と書きますが、象(かたど)られているのは竜ではなく中国神話の生物である「蒲牢」(ほろう)です。
蒲牢(ほろう)は大きな声で吼えるのを好むといわれ、鐘が良く鳴るようにとの気持ちが込められ、梵鐘をくわえるように上部に配置されています。



この建物の中に鉄塔があります。

これが見所
経文を収めた鉄塔  県重要文化財
鉄塔は内部に納められている。明治維新後、野ざらしにされていた時代があったのだろうか? 腐食破損していて保存状態は良くない。県の文化財に指定されているが、状態がよければ国重文でもおかしくない物件ではないだろうか。
室町時代の作
改鋳:応永5年(1398年)8月10日(美濃守護土岐頼益)
高さ :1.8m
上径:0.7m
下径:1.0m
上層に梵字の日次及び菩薩六体
下層に四天王像が鋳つけられている
北条政子が夫 源頼朝の菩提を弔うために寄進したものです。


関ヶ原合戦時破損し、初層と二層の部分だけが現存
珍しい塔で 如法経(法華経)を書写して納めていたものです。
(納経鉄塔の現存は全国に五口のみ)(注:現存鉄塔)
当寺院の鉄塔は 『新撰美濃志』に「古銘は鎌倉二位尼の建立」とあり、夫である源頼朝の死後、妻である北条政子が、頼朝の菩提を弔うために全国の社寺に多数寄進したものの一つで珍しい鉄塔です。


鋳鉄製塔で、初層主軸部と屋蓋、二層主軸部だけが残り、初層と二層の主軸部の直径の逓減工合から、もとは基壇上に三層鉄塔が安置され、円形主軸部と同形の屋蓋を交互に三層を積み重ね、その上に露盤と九輪を安置したのと思われる
(岐阜県指定文化財調査報告書第三巻・垂井町史)


鉄塔の銘文は、江戸時代までの雨ざらしによる錆と関ヶ原合戦時の破損により現在は読みとれませんが、応永5年(1398年)8月10日美濃守護土岐頼益の命により破損していたのを改鋳したことが記されています。(注:銘文)
現在の破損は、慶長5年(1600年)9月15日(新暦10月21日)関ヶ原合戦時、南宮山に陣取っていた西軍の長宗我部盛親が、陣営の兵糧の煮炊きに使ったためであるという。
(新撰美濃志・垂井町史)


現存する納経鉄塔(五口)
六十六部法華経納経塔 (資料提供 : ノートルダム清心女子大学 小嶋博巳教授)
 
   
下野  栃木県日光市     
輪王寺三仏堂  文明2年(1470年)


陸奥  岩手県平泉町    
 毛越寺宝物館  文和4年(1355年)


石見  島根県大田市大田   
 南八幡宮  正平17年(1362年)説?
                   文明17年(1485年)説?
                       永正17年(1520年)説?有り


淡路  兵庫県洲本市     
千光寺
洲本市立淡路文化資料館 
 文保2年(1318年)


美濃  岐阜県垂井町     
  真禅院   応永5年(1398年)

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