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石見銀山  世界遺産


島根県大田市大森町
0854-89-0347


石見銀山世界遺産センター」は、石見銀山の歴史と技術を紹介する展示や、石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開しています。
ここから、銀山は基本的に一般車は侵入できません、バスに乗り換えて向かいます。
当時の銀の精錬技術である灰吹法(はいふきほう)を解説する常設展示場があります。


大久保間歩 おおくぼまぶ
「間歩」とは銀を採掘した坑道のことをいいます。「内部はノミで掘った跡がそのままの状態で残っており、当時の作業の様子を知ることができます。「龍源寺間歩」は唯一、常時一般公開されている間歩です。
初代奉行の大久保長安の名から名付けられた、石見銀山最大級の間歩です。江戸時代から明治時代にかけて開発され、その規模は他の間歩に比べて群を抜いています。坑内の高さは最大で5mあり、大久保長安が槍を持ち、馬に乗ったまま入ったという伝説があります。
ここは限定ツアーのみ。事前予約聖です。時間がある方は是非に




一般尾観光は龍源寺間歩
龍源寺間歩は1715年に開発された坑道で、大久保間歩に次いで長く600mもあります。正徳5年の開発で、永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていました。

ここまでアシスト付自転車で20分(自転車は4⑦00円)

五百羅
銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために建てられた「羅漢寺」。その羅漢寺の向かい側に掘られた3つの石窟には、完成までに20年もの歳月がかかったという、501体の羅漢像が安置されています。
羅漢の写真はありません。(カメラの電池切れ)



石見銀山の発見
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代  1303年に周防の大内弘幸 石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている。
一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神谷寿貞(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。海上から山が光るのを見た神屋は領主大内義興の支援を受け、また出雲の国田田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1526年3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
坑道から搬出された鉱石のうち、不要な石(ズリ)は、周辺の谷を埋め平地を作るのに使用された。電灯が導入されるまでは、サザエの殻に、菜種油を満たした灯りが長く使用されていた。このサザエの殻を使用した灯りは、石見銀山のマスコットになっている



銀山争奪戦」
1537年(天文6年)出雲の尼子経久が石見に侵攻し銀山を略奪。2年後に大内氏が再び奪還。その2年後は再び尼子が石見小笠原氏を使い銀山を占領した。m多々毛利元就が進出銀山争奪戦を繰り広げた。
山吹城に入った吉川元春の家臣により1562年12月には朝廷の御料所として献上された。毛利氏が秀吉の服従すると銀山は秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり。秀吉の朝鮮出兵の軍資金にあてられた。
毛利輝元は秀吉の命により石見銀山を始め領地の銀山を納めるため林就長、柳沢元政を奉行に任命。輝元は秀吉に銀3000枚(129貫・480キログラム)を関ケ原の戦い直後1600年(慶長5年)に徳川家康と毛利家で折半にした。
銀13000枚づつだったようです。
当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている)に


その後銅の産出を始め、の後、日中戦争、太平洋戦争の最中日需物資としての銅の国産化を目論んで1941年より銅の再産出を試みるものの、1943年の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。戦後再開発に踏み切るも採算がとれる鉱脈は見つからず終焉を迎えた。


大森町(ここもぐるりと回りました。30分位)
江戸時代の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商・熊谷家住宅など、歴史的な建造物や文化財が並び、当時の面影を残す大森の町並み。その通りをのんびり散策すると、どこか懐かしい雰囲気に包まれます。その景観を壊さないよう、自動販売機も木製枠で造られていた。


カメラの電池もなく少し薄暗くなってきので帰路に就く。
自宅までナビで8時間(時間があったら岡山でホテル飛び込み翌日、岡山城見てからとも考えましたが、帰宅することに。

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