伊豆半島の旅 ⑧ 掛川城
最初の計画では、ここからスタートでしたが最後になりました。
掛川城 別名:懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
住所:静岡県掛川市掛川1138番地の24
☎0537-22-1146
駐車場は市営駐車場を利用
㍻25年9月28日
遺構:二の丸御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀(いずれも一部)
二ノ丸御殿
1861年(文久元年)に再建された二ノ丸御殿現存、1980年(昭和55年)に国の重要文化財に指定されている。
玄関下御門が明治維新後に、袋井市の油山寺にそのまま移築され、これも国の重要文化財に指定されている。
この門は山之内一豊が乗馬のまま通れるよう高く造ってある。
大手門番所も幕末の建築であり、市の指定文化財に指定されている。また、掛川市円満寺の山門として蕗(富貴)の門が、どこの門か定かではないが菊川市西方(にしかた)の龍雲寺裏門に移築されている。
戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。
城門は山内一豊が乗馬のまま通れるよう高い。
本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は、1854年に倒壊した天守や一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。城跡の整備が城下に至り、電柱の埋設など都市景観の配慮に及んだ。
三日月掘
深さは8mあります
一豊は高知から職人を連れてきて築城した。
天守閣
1604年(慶長9年) 大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。
山内一豊創建時の姿は不明です。1621年に再建された姿は、『遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図』に描かれている。それによれば、2重目以上が板壁で2重目には唐破風出
窓に華頭窓をもつ層塔型の天守が描かれている。3重目の壁は黒く縦横に線が描かれているため、戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であったと推測されている。
3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。 また、この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にしてそれに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。
確かに現存する高知城天守は、江戸時代末期の再建ではあるが、創建当初の天守を忠実に復興したとされるため、一豊創建時の姿に近いものであると考えられている。
掛川城の天守が地震で倒壊する数年前の1851年(嘉永4年)に作成された、天守台周囲の崩落した石垣と芝土手の被害状況を示した絵図面が残っており、同時に天守の形も示されているので、嘉永地震以前の天守を知る重要な手がかりとなっている(掛川城二の丸美術館蔵)。ただし、廻り縁高欄が描かれていないことや各階壁面の下部板張りであるなど、再建された天守とはやや異なっている面もあるようである。
霧吹き井戸
井戸に守られた城
戦国時代の 永禄11年(1568年)に、駿河の今川氏真(いまがわうじざね)は東から武田信玄、西から徳川家康に攻められました。
駿府館(静岡市、後に駿府城が築かれた)を脱出した氏真は、重臣朝比奈泰朝の掛川城に立てこもります。包囲した徳川軍が、1569年(永禄12年)に掛川城を攻めた際に、井戸から霧が吹き出して城を守ったという「霧吹き井戸」があったとの言い伝えがあります。
右端にあるのが霧吹き
太鼓櫓
太鼓櫓とは櫓内部に太鼓を設け、城内や城下に時刻を知らせる施設で、様々な形式があるものの時刻を知る事は日常生活にとって大切な事なので城郭内部や城下町に設置されていました。掛川城の場合は三之丸に設けられていましたが、江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で大破し、その後再建されました。
掛川城は明治2年(1869)に廃城となり、明治4年(1871)に廃藩置県が行われると多くの建物は払い下げとなり、太鼓櫓も民間の手に渡り数度持ち主が変わり、昭和30年(1955)、二之丸にあった荒和布櫓の場所に移築されました。
建物は木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、腰壁は下見板張り縦押縁押え、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
左隅に見えるのが二の丸御殿
駐車場の手前に見えるのが大手門
凄い石垣 立派です
二の丸御殿から見た天守閣
二ノ丸御殿
御殿は、木造桟瓦葺き平屋建て、総建坪は約287坪。
城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。 当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。
ここのは本来長火鉢が置かれていた
長火鉢上の煙抜き 家紋があった
現存する御殿は、嘉永7年(1854年)大地震で倒壊したため、時の城主太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。
安政2年から明治2年(1869年)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。
その後、現存する城郭御殿としては、京都二条城・高知県の高知城、埼玉県の川越城など全国でも数カ所しかない、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。