岐阜県 南宮大社 徳川家光の寄進
南宮大社 岐阜県 平成25年1月6日(日)初詣
住所:岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1
☎0584-22-1225
祭神:金山彦命 (かなやまひこのみこと)
配神:彦火出見命、見野命
自宅から約1時間30分ぐらいです。多度大社が近いのですが、こちらは趣が違います。
社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。
1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。
近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。
駐車場は別に特設されており、無料であった。
駐車場から徒歩5分ぐらい。
到着すると、石の太鼓橋が迎えてくれるが、ここは通行できません。脇の石橋を渡り
楼門へ彫刻が施された立派な楼門。
楼門 重要文化財
大鳥居高さ24m
楼門裏側
楼門裏側の獅子像
楼門裏側の彫刻
石鳥居 重要文文化財石鳥居は、旧中山道から南宮参道への入り口(垂井本町の四つ角)にある。これも寛永十九年の築造で、花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式でできている。
地上から最上部までの高さは約七メートル。柱の直径は約七十三センチある。造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうで、地震などに耐える堅固な造りになっていたことが分かる。
鳥居の中央部には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額がかけられている。両側には一対の石灯籠と南宮道の道標がある。
それにしても、重い石の鳥居を、クレーンもない当時の技術で、どうやって組み立てたのだろう。これには逸話が残っている。土俵を高く積み上げ、その上に石材を大勢で引き上げて組み立て、終った後、積み上げた土俵のどれかに小判が入っているとして庶民に取り崩させた、という話がある。
南宮大社(垂井町宮代)は主祭神に金山彦命を祀り、相殿に見野命、彦火火出見命が祀られている。主祭神の名から、金山をはじめ金属一切をつかさどる神様として、うやまわれてきた。
創設は神武天皇の時代にさかのぼる。古くは仲山金山彦神社といわれ、美濃国府が置かれていた府中(垂井町)に祀られていたとされる。現在地の二キロほどのところである。
崇神天皇のとき、現在の場所に移り、国府の南に位置することから、南宮大社と呼ばれるようになったと伝えられる。この「南宮」という社名の由来については、宮司の宇都宮精秀さんが、「朝鮮半島と深い関わりがある」という新説を唱えている(四十ページ参照)。
慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の合戦の兵火で社殿は焼失。そののち寛永十九(一六四二)年、この地にゆかりの乳母・春日局らの願いを聞き入れた三代将軍、徳川家光によって再建された。
現在の南宮大社の社殿、石鳥居、石橋などは、このとき家光が寄付した七千両(約二十一億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。
正面の楼門をくぐると、舞楽を奉納する高舞殿があり、その奥には拝殿、本殿などが三百六十年の時を経て、荘厳なたたずまいを見せている。
木々の緑に囲まれた社殿は、十五棟からなる。本殿、弊殿、拝殿、樹下社本殿、高山社本殿、隼人社本殿、南大神社本殿、七王子社本殿、回廊(左右)、勅使殿、高舞殿、楼門、神輿舎、神官廊。そのすべてが国の重要文化財に指定されている。
建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、南宮造と呼ばれている。本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも特徴の一つと言える。社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。中でも高舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高い。
楼門の表には右大臣、左大臣の木像、裏には狛犬がそれぞれ門番のごとく配置され、参拝の人々を見守っている。
屋根を葺き替える式年遷宮は、五十一年目と定められていて、最近は昭和四十八(一九七
三)年に行われた。この時は文化庁の指導のもとに二年余りの歳月をかけて社殿の修復が行われた。また、楼門の南の広場にはコンクリート建築の宝物殿が新築された。宝物館には名刀など多くの宝物が保存され、毎年、文化の日(十一月三日)に公開される。このほか三重塔、本地堂、鐘樓などの仏教関係の建造物も同じ時期に建てられたが、明治維新の神仏分離のとき、これらは近くの真禅院(朝倉山)に移築された。
南宮大社には江戸時代の社殿の配置を描いた古図が保存されていて、それには三重塔など仏教関係の建造物も描かれている。
石輪橋
楼門の前の川には、石輪橋、石平橋という二つの見事な石橋が架かっている。造営時期は社殿と同じ寛永十九年。
門の正面が石輪橋。花崗岩で造られ、その名の通り輪のように円弧を描いている。この形は、そり橋とも呼ばれ、神様が通られる橋、つまり人間は通ってはいけない橋を意味している。
石平橋
その下手にあるのが石平橋。同じ花崗岩で造られているが、形はほぼ平らになっている。
この橋は、石輪橋と違って、人が参拝の行き帰りにわたる橋。五月五日の例大祭で、おみこしが下向する際に渡ることから下向橋とも呼ばれる。
神紋は、現在は菊紋を使用しているが、昔は三つ巴。
境内の荒魂社などには、三つ巴の幕。
また、本殿の側面にも三つ巴が付いていた
正面に拝殿(重要文化財 高舞殿(重要文化財)
蛙股には干支の彫刻がある
すみません 干支がかけています。
本殿左側
本殿右側 入り口に並んでいるところが 中央です
神輿蔵 何故か鎌が沢山奉納されていた。
古い瓦が積み上げられている
鳥居は126本あった。
南宮大社の古図を発見しましたので参考に



















































