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京都    西寺跡  国の史跡

西寺跡  国の史跡
住所:京都市南区唐橋西寺町

西寺は、平安京の右京九条一坊にあった官寺。羅城門西側にあり、羅城門を挟んで東寺と対をなしていた。
延暦13年(794年)第50代・桓武天皇の勅願により、平安京の造営が始まり、平安京にはその中央に朱雀大路が通り、その東側を左京、西側を右京としました。そして、平安京の入り口である朱雀大路の南端には、羅城門(らじょうもん)と呼ばれる、幅36メートル、高さ21メートルの巨大な門が造られ、その門を入ったすぐ右手(左京・これは大極殿からすると)に現存する東寺が、そして、左手(右京)に西寺が創建されたのです。


左右対称に建てられた東寺と西寺はほぼ同規模で、それぞれ東西に約250メートル、南北に約510メートルもある広大なものでした。東寺にある五重塔と同様に、西寺にも五重塔がありました。
国家・王城鎮護”を目的として創建された東寺と西寺は、ともに弘仁11年(820年)頃までには完成し、西寺にも、東寺と同じように、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、金堂や講堂の周りには僧坊がありました。


弘仁14(823年)に嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏(しゅびん)に委ねました。東寺は真言密教の根本道場として発展するのに対して、西寺には、全国の寺院や僧尼を統括する施設「僧綱所(そうごうしょ)」が置かれ、天皇の国忌を行う官寺として発展しました。こういう観点から見ると、当初は東寺より西寺の方が格上だったとも思われます。


空海と守敏
空海と守敏はともに真言宗の僧であったことから、相対する意識が強く、何かと事あるごとに対立していたと言われています。
天長1年(824年)雨が降らず、干ばつ続きで困っていた朝廷は、2人に雨乞い対決をさせることにしました。


守敏は西寺の金堂に籠もり、三日三晩、寝ずの祈祷を行いましたが、雨は一粒も降ってきませんでした。ところが、空海が神泉苑(しんせんえん:現二条城の南に位置する真言宗の寺院)の竜神の池にある祠で祈祷をし出すと、にわかに空は厚い雲に覆われ、夜の如く暗くなって、激しい雨が降り始めたのです。そして、池の中から金色の龍、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)が現れたのでした。この結果、朝廷の守敏への信頼は失墜することとなったのです。
西寺はその後、正暦1年(990年)に起きた落雷による火災によって、焼失。再建はされたものの、次第に荒廃し、鎌倉時代の天福1年(1233年)に五重塔が焼け、西寺は廃絶し、以後再興されることはありませんでした。


平安時代以降、空海への信仰心から、歴代天皇や、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は、土一揆や地震、火災により、伽藍が焼失するたびに東寺が廃れないようにと復興に尽力したため、中門や回廊、僧坊などが失われたものの、今も創建された地に東寺は現存しているのです。
それに対し西寺は、今は石碑と疎石がひっそりとあるのみとなってしまいました。
西寺の主な伽藍があった場所は、現在の唐橋児童公園と唐橋小学校の辺りで、昭和34年(1959年)から行われた発掘調査で判明した講堂跡には「史跡西寺址」の石碑が、そして、金堂跡には疎石が3つあるのみです。

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