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岐阜県 海津市 今尾神社 (摂社・平田神社)薩摩藩士の歴史

今尾神社
住所:岐阜県海津市平田町今尾3055番地の8
祭神:豊受姫大神(とようけひめおおかみ  天津大神(あまつおおかみ)
創建:慶長19年(1614年)


駐車場:あり
交通機関


ここでは春のお祭りで左義長が行われる。

拝殿
本殿は樹木におおわれ撮影はできませんでした。


摂社
平田神社



本当に小さなお社です。
 宝暦治水で犠牲になりました薩摩藩家老平田 靱負(ひらた ゆきえ)がお祀りされています。
江戸時代にこの治水工事の責任者であった。
表向きは病死とされたが実際は自害して果てた。


何故こうまでして薩摩藩を苦しめたのかというと。
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球(現 沖縄県)との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。


露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。


40万両にも上る工事費用を捻出するため大阪の豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労と伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川方からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。


薩摩藩はこの工事に携わった藩士、病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。


分流工事は着工から1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、その後平田は死去(自害)した、享年50。遺体は 山城の国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。


辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。



      
先に公開しました、治水神社があります。


最後迄お読み頂きありがとうございます

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