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四国八十八ケ所車で遍路の記録/ 85番 八栗寺


涅槃の道場:第66番~第88番札所:讃岐の国(香川県)
いよいよお遍路の後三寺を残すのみとなりました。
2020年1月19日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月19日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を
追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年8月13日に再度公開しました。


84番:屋島寺より5.4km
第1番から1254.7㎞
第85番八栗寺(やくりじ)
ここはケーブルカーで向かいます。
赤色のケーブルカーと緑色のケーブルカーがあります。
麓からは、ケーブルカーで4分で結んでいます。
ケーブルカー登山口駅の左手に遍路道があり、急な坂を歩きますが約20分で着きます。
ここは、ケーブルカーを利用しました。
歩き遍路では左側の道を行くらしい。また車でも行けるらしいが、歩いて200m、坂道が急な参道。


住所:香川県高松市牟礼町牟礼3416番地
山号:五剣山(ごけんざん)
院名:観自在院(かんじざいいん)
宗派:真言宗大覚寺派
創建:伝:天長6年(829)
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:聖観世音菩薩
☎:087.845.9603
駐車場:有料、普通250台、大型10台
高松自動車道・さぬき三木ICから国道38号を牟礼町方面へ。さらに県道36号を利用。約20分です。


交通機関
ことでん八栗駅から徒歩で25分
真言:おん あろりきゃ そわか
御詠歌
煩悩を 胸の智火にて やくりをば 修行者ならでは 誰か知るべき


屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗山はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登ってこられます。


延宝5年(1677年)に、木食上人が東福門院(後水尾天皇妃)より賜った弘法大師作の歓喜天を勧請しました。


本坊・御成門(写真はありません)
御成門(おなりもん)は高松藩の藩士が八栗寺に来た時に使っていた門といわれています。本坊の山門を入ってすぐ右手側にあります。唐破風様式・桧皮葺きの建物で、屋根には金色の葵の紋が入り、彫刻は左甚五郎の末裔の作といわれています

ケーブルカー
赤色と緑色があります。

ケーブル降りたところの鳥居

多宝塔
多宝塔があるが昭和59年10月建立でまだ新しい。総檜造り本尊は金剛界大日如来だという。内部は四方の壁面に八祖大師と十二天像、来迎壁の裏面に尊勝曼荼羅、四方の扉には八大菩薩が極彩色を以って描かれているらしいが中には入れない。


地蔵堂
地蔵菩薩を祀り、子授けにご利益のあるお地蔵さまといわれています。
地蔵菩薩の御真言は「オンカカカビサンマエイソハカ」です。

鐘楼堂(しょうろうどう)と梵鐘(ぼんしょう)
鐘楼堂は寛政三年(1791年)建立。梵鐘は戦時供出のため戦後しばらくありませんでしたが、中井龍瑞が昭和三十年(1956年)新たに平和の祈りをこめて作ろうと書家松坂帰庵の紹介で會津八一(あいづやいち)【歌人 秋艸道人(しゅうそうどうじん)】に鐘の揮毫を頼みました。刻字は松坂帰庵がしました。昭和三十二年(1958年)突き初め式を行いました。會津八一(秋艸道人)の「八栗寺の鐘」として歌人書家の間では有名です。現在だれでも参拝時に突くことができ、大みそかには百八名の希望者により除夜の鐘が突かれます。
鐘に刻まれている會津八一遺作の歌
ひらがなできざまれています。


わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひひけこのかね のりのみために
(意味 海の底深く泳いでいる魚のひれにまで響けこの鐘よ 仏法のために)
経路としてはここからお参りするのが良いでしょう。



聖天堂(歓喜天)
ここがこのお寺のメインでしょう。
三間四面撞木造り屋根はひわだぶきの建物。中央には伝弘法大師作のお聖天さま、右方には十一面観音、左方には軍荼利明王が祀られています。
夫婦二天の歓喜天象頭人身の男女の神が抱き合った姿をしています。
毎日朝九時から夕方三時までお参りができます。築後三百年を超える建物であり、行者の修法する内陣が岩窟内に納められ、そこにとりつくようにお堂が建てられています。中陣の柱や壁には鳳凰や桐の花が描かれ荘厳さをかもし、外陣には「巾着や大根」の紋の入った提灯や灯篭が吊り下げられ華やかです。


聖天堂の歴史
延宝四年(1676年)木食以空上人(もくじきいくうしょうにん)は、後水尾天皇の皇后である東福門院(徳川秀忠・江の娘)より賜った、歓喜天をお祀りする場所を探し四国行脚していました。厳しく神秘的な五剣山の山容を拝して、この山こそ「天尊勧請相応の霊地」と悟ります。そして、本堂横の岩窟が凡庸ではないことを見て意を深くし、延宝五年(1677年)にお堂を建てました。


喜びを歓びとする「歓喜天」
歓喜天は、人の喜びを歓びとする天尊で、ここにはをお祀りしています。日本最古ともいわれる弘法大師作の秘仏で、50年に一度開扉されます。お聖天さまは、仏法を守護し仏道を行ずる人々を守護する天尊で人々の迷いを救い、願いを叶えて下さいます。
功徳を表す「巾着」「大根」


境内には巾着や大根の印が多く見られますが、これは祈願することによって得られるお聖天さまのご利益をあらわしたものです。「巾着」は福徳財宝で商売繁盛を表し、「大根」は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。



聖観音
聖観音は、本堂と随求菩薩の間にあります。昭和四十七年(1972年)年寄進されました


十一面観音
十一面観音菩薩は、お聖天様の本地仏であり、衆生の迷いを救い、願いを叶えて下さいます。昭和五十一年(1976年)に寄進されました。背面の地層は、1000万年以上も前のものです。



大師堂

木食以空上人
天尊行者として名高かった木食以空上人が八栗寺に歓喜天を勧請し、寺の繁栄の礎を築かれたことをたたえて、昭和四十年(1965年)に建立された像で、姿は上人の自画像をもとにしています。ちなみに、肉類や五穀を食べず、木の実や草などを食して修行することを「木食」といいます。題字は中井龍瑞。


二天門
天部の「持国天」と「多聞天」が祀られています。
二天門から真っすぐ進むと本堂
左手に聖天堂ち護摩堂
聖天堂の脇に十一面観音菩薩

本堂
本堂の屋根には三つ葉葵の紋があった。ここは高松藩松平家が再建したといわれている。


本堂横から石段を上がると
中将坊堂
山の守り神である天狗の八栗山中将坊を祭るお堂です。
さぬき三大天狗の一人。夜に山から下りてきて、民衆のために良いことをして朝帰る天狗。中将坊堂脇に下駄を奉納し翌日下駄が汚れていれば中将坊が働いてくれた印だとか。
赤い下駄が並べてありました。
八栗寺が古くから山岳修験の場でした。名残だそうです。


この後ろの山には摩崖仏も残っていますが、危険な為見学はで来ません。


五剣山  三山しか見えませんでした。


随求菩薩(すぐいぼさつ)
随求菩薩は、観音菩薩の変化身とされます。大随求菩薩ともいい、人々の求願に随い施し与えることから「随求」と名づけられています。
菩薩の周囲を“南無随求菩薩”を3辺唱えて回ってお願いをすれば、願いを何でも叶えてくれると言われています。


地図を用意しなかったのであちらこちらウロウロ、かなり広い境内です。



護摩堂(通夜堂)写真はありません。
お聖天さまのお子さまである「歓喜童子」(木仏彩色像)が祀られています。これは以空上人が修行中に夢で感得したお聖天さまの童子形です。彩色された木仏像は全国的にも珍しく霊験もあらたかです。毎月の15日および月末の午後七時よりご宝前にて護摩供養が修行されます。



八栗寺は、天長6年(829年)弘法大師が開基した五剣山の中腹にあるお寺です。
弘法大師がこの五剣山で求聞持法を修行中、五柄の剣が天より降ってきましたが、山の鎮守蔵王権現が現れ、山の鎮護を告げました。
弘法大師は五剣を巌穴に埋め、山を鎮め、千手観世音菩薩を刻み、堂宇を建立したのが山号(五剣山)の由来です。
また、五剣山の山頂からは、広く八カ国が望めるため、寺号は八国寺とされていました。
弘法大師が、唐に渡る前に植えた焼き栗8個が、帰国後も成長繁茂していたので寺号を八栗寺と改めたといいます。


この寺も長宗我部元親の兵火により全焼してしまいました。
しかし、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)を建立、さらに高松藩主松平頼重公
が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在を本尊として安置し観自在院と称した。
五剣山は、標高357mの山で、檀の浦をはさんで屋島と向かい合っています。
5つの峰が剣のようにそびえ立っていることから五剣山と名付けられました。
しかし、元禄11年(1698年)の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永3年(1706年)の地震で東の峰が崩れ、今は4つの峰になっています。



八栗寺→7.2k志度寺まで

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