ほんわか人生の旅

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四国八十八ケ所車で遍路の記録/第74番甲山寺(こうやまじ)・第76番金倉寺(こんぞうじ)

涅槃の道場:第66番~第88番札所:讃岐の国(香川県)
2020年1月19日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月19日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を
追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年7月30日に再度公開しました


第1番札所から1164.5㎞
第74番甲山寺(こうやまじ)
岩窟に弘法大師が彫った毘沙門天が鎮座する寺


住所:香川県善通寺市弘田町1765-1番地
山号:医王山(いおうざん)
院名:医王山(いおうざん)
宗派:真言宗善通寺派
創建:伝:弘仁12年(821年)
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:薬師如来


☎:0877-63-0074


駐車場:門前にかなり広い駐車場
無料、普通70台、大型15台
善通寺インターチェンジから観音寺市内向きに国道11号線へ。
73番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)からは車で車2km・5分と近いです。


交通機関
JR予讃線善通寺駅から約3km
真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか


御詠歌:十二神 味方に持てる 戦には おのれと心 甲山かな


山門
まだ新しい

中門
標石・(しるべいし)
中門の左側にあります。
中務茂兵衛義教(なかつかさもへえよしのり)
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら)
現在の山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地
で確認されているだけで200基以上あるようです。札所の境内、遍路道沿いに多く残されて
いるようです。


41番札所龍光寺鳥居前にもありました。
この標石には寺名と次のお寺の名前と距離が書かれています。
ここの標石は75番善通寺までの距離が書かれているのですが判別がつきません。


本堂
本尊は、空海が満濃池建設の際、工事の無事を祈願して自刻したという檜の一木造りの薬師如来像です。

大師堂

毘沙門堂
大師堂の隣にあります。
これには驚きます。
間口2.5m、奥行12mの岩窟があります。
弘法大師が彫ったといわれる毘沙門天像(石造り)が祀られています。


毎年正月三が日には「毘沙門天の秘法修め」があり、開運守が授与されます。
9月23日には『秋彼岸中日・彼岸会永代供養法要』が執り行なわれています。


空海が曼荼羅寺と善通寺の間に霊地を探して求めていたところ、岩窟から現れた翁に「ここに寺を建てよ」と告げられ、毘沙門天像を刻んで岩窟へ安置したことに始まると伝えられています。


 弘仁12年(821年)、土木に優れた空海は嵯峨天皇から満濃池(まんのういけ=日本最大の灌漑用溜池)の修築を命じられ、築池別当(つきいけべっとう)として帰郷。
この時、工事の無事を祈願して本尊の薬師如来を刻んで修法しています。


朝廷が派遣した築池使さえも達成しなかっら難工事を成功させた褒賞金で堂宇を建立、そこに薬師如来を安置したのが始まりとなっています。
甲山寺の名は、山容が毘沙門天(唐の武将風の姿)の甲冑(かっちゅう)の形に似ていることに由来します。



善通寺のあと訪れる予定であったが時間に余裕があるので、明日の予定であった76番と77番をすませることとする。
少林寺拳法で有名な多度津方面に行くと、金蔵寺町の中心に見えてくる「金倉寺」。


第76番金倉寺(こんぞうじ)
住所:香川県善通寺市金蔵寺町1160番地
山号:鶏足山(けいそくざん)
院名:宝幢院(ほうどういん)
宗派:天台寺門宗
創建:伝:宝亀5年(774)
開基:伝:和気道善
御本尊:薬師如来
☎:877-62-0845
駐車場:有料[200円]、普通80台、大型30台
高松自動車道・善通寺ICから国道11号を観音寺市方面へ。約10分。
交通機関
JR予讃線金蔵寺駅から約500m


真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:まことにも 神仏倉を 開くれば 真言加持の 不思議なりけり


まずお迎えしてくださるのが七福人の布袋様
寿老人さま

名前は記憶にあまりありませんが
ここ木の節にわらべ像がありました。


山門

山門
扁額 鶏足山


表側
仁王像

鐘楼
12本柱の珍しい造り


入山大師

中門
石柱門
右横に薬師如来瑠璃光お石柱



本堂前のl大黒天(金箔)

本堂

ぐち聞き童
あまり大きな声ではいわないで
耳元でささやいてください。



大師堂
智証大師と弘法大師の像を安置。共に「大師」の称号を得、「讃岐の五大師」に数えられています


本堂左手には訶利帝堂(かりていどう)
訶利帝母(鬼子母神)の尊像を祀っています
(写真はありません)


境内には七福人があります。
寿老人
弁財天
弁天祠
七ヶ所まいりの弁財天


七ヶ所まいりとは、四国霊場第71番・弥谷寺から、第77番・道隆寺までの7寺院を一日でお参りすると、四国霊場88ヶ所をお参りしたことと同じだけの功徳があるというもので、七福神の仏さんが1ヶ寺に1体ずつ祀られています。


乃木将軍妻返し松(写真がありません)
明治の偉勲、乃木希典将軍が善通寺第十一師団長を務めていたとき、この金倉寺の客殿を宿泊所にしていました。
そこに妻の静子夫人が面会にきましたが、乃木将軍は会うことを拒否します。
夫人は、しばらくの間、境内にある松の木の下に佇んでいたといいます。
この木が「乃木将軍妻返し松」と呼ばれています。


遺品展示室
明治31年から約3年、この寺で暮らした乃木希典愛用の軍帽、肖像画、夫人からの 手紙などが保存されています。


 金倉寺は、弘法大師の血縁(弘法大師の姪の子)にあたる智証大師円珍(814~891年)の生誕の地です。
「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれていました。
智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。
5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説もあります。
この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。


智証大師は天台宗寺門派の開祖でもあります。
智証大師は、唐(中国)に渡り天台密教を学び、ここ金倉寺にきてからは弘法大師と同様に唐の青龍寺を模して伽藍を造営しました。
そして、薬師如来を刻んで本尊にしました。
当時の寺号は祖父の和気道善からとった「道善寺」と呼んでいました。
智証大師は、後に延暦寺第五代天台座主になっています。
後の延長6年(928年)に醍醐天皇(在位897~930年)の勅願により寺号と山号を現在の名である鶏足山金倉寺に改めました。



金倉寺→3.9km→77番:道隆寺

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