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四国八十八ケ所車で遍路の記録/第72番曼荼羅寺(まんだらにじ)・第73番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)

涅槃の道場:第66番~第88番札所:讃岐の国(香川県)
2020年1月19日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月19日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を
追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年7月28日に再度公開しました。


涅槃の道場:第66番~第88番札所:讃岐の国(香川県)


第1番から1163㎞
第72番曼荼羅寺(まんだらにじ)
住所:香川県善通寺市吉原町1380-1番地
山号:我拝師山(がばいしざん)
院名:延命院(えんめいいん)
宗派:真言宗善通寺派
創建:伝:大同2年(807)
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:大日如来
☎:0877-63-0072
駐車場:有料(200円)、普通10台、大型4台
高松自動車道・善通寺ICから国道11号を善通寺市方面へ。約15分。


交通機関:
JR予讃線善通寺駅から約6km


真言:おん あびらうんけん ばさらだどばん
御詠歌:わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ ふたたびみたび 帰らざらまし


山門
古びた山門がある。


山門扁額『我拝師山』
表側には仁王さん裏側は大きなわら草履


「西行」もここをおとずれています。
本堂の前には平安時代末期に歌僧西行が昼寝したといわれる昼寝石があります。
本堂から回廊伝いの右手に位置する観音堂には、聖観音立像が安置されている。檜材の
一木造りで藤原時代の作と言われ、香川県の文化財に指定されているとのこと。
後で知り得たことであるが、四国88カ所の記念切手にこの寺の仏様がえがかれています。


石橋を渡る
法雲橋

振り返った山門


鐘楼(写真がありません)


延命地蔵


本堂
弘法大師のお母さん、玉依御前(たまよりごぜん)の菩薩寺です


大師堂


観音堂


笠松大師・(不老の松)
境内にある不老松(笠松)は、寺の名前を変えた記念に大師がお手植えしたとい
われる。樹齢千年を超えるこの松は、高さ4mの傘の形に作り込まれていた。直
径が約30mもある大きな傘の形をしているので、「笠松」といわれ県指定の文化財
になっていた。現在は、松食い虫の被害で枯れ、平成14年に伐採されています。
その跡だけが残っています。
枯れ死した不老松の幹部にお大師さんのお姿を刻み、お手植えご縁の名残を留めています。
2002年まで生きていたようです。


護摩堂


西行の昼寝石(腰かけ椅子)・「笠懸桜」
護摩堂のまえにあります。
曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘がありますが、ここに庵を建てて7年余り暮らしていたのが西行法師。法師が仮住まいとした「水茎庵」があります。
この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたようで、この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。


その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木。
西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」という歌を詠んだそうです。


曼荼羅寺は、推古天皇4年(596年)に弘法大師の祖先、讃岐国多度郡の郡司・佐伯家の氏寺として建立されたとあります。
この時は、世坂寺(よさかでら)と呼ばれていたそうです。
大同2年(807年)、留学先の唐(中国)から帰国した弘法大師は、唐の青龍寺を模した堂塔を建て、本尊に大日如来を勧請し、唐から持ち帰った曼陀羅を納め、曼陀羅寺と名付け72番札所に定めたといいます。



曼荼羅寺ホームページ
http://www.mandaraji.jp/wiki/main/


72番札所からほどなく移動すると出釈迦寺


第1番から1163.4㎞
第73番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
住所:香川県善通寺市吉原町1091番地
宗派:真言宗御室派
山号:我拝師山(がばいしざん)
院名:求聞持院(ぐもんじいん)
創建:伝:奈良後期~平安時代前期
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:釈迦如来
☎:0877-63-0073
駐車場:無料、普通10台
高松自動車道・善通寺ICから国道11号を善通寺市方面へ。約15分。
交通機関
JR予讃線善通寺駅から約5km


真言:のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
御詠歌:迷ひぬる 六道衆生 救はんと 尊き山に いづる釈迦寺


奥の院
捨身ヶ嶽禅定


駐車場から、少々の石段、なだらかな坂を通って山門があります。


山門
山号扁額


本堂

本堂の左方向が「捨身ヶ嶽遥拝所」になっており、お寺の境内から拝むこともできます。



大師堂

求聞持(ぐもんじ)大師
出釈迦寺は弘法大師七歳の捨身誓願の霊跡であるとともに、弘法大師は四国八十八ヶ所開創の時、再度この地を訪れ、虚空蔵求聞持の法を修行しました。
この求聞持の法とは、虚空菩薩のご真言を一百萬遍お唱えする法でその修行の姿が求聞持大師です。
この求聞持の法を修する事により一切の教法の文義悉く暗記することが出来るといわれています。
「求聞持大師」を拝むと、学業成就や物忘れ防止のご利益があるそうです。


出釈迦寺は、我拝師山の北麓にある静かなお寺です。
弘法大師「捨身ヶ嶽」で知られているお寺です。
弘法大師は幼少の頃、自らが諸仏と話している夢をよく見たそうです。


弘法大師が真魚(まお)と呼ばれていた7歳の時のある日、救世の大誓願を立て、この我拝
師山頂上に登り
「自分は仏門に入り、たくさんの人々を救いたい。この願いが叶うのなら釈迦如来よ、現れ
たまえ。叶わぬのなら、この身を捧げて、我が身を諸仏に供養するつもりだ」
と唱え、断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を投げました。
すると紫の雲がわき起こる中、大光明を放って釈迦如来と羽衣を身に纏った天女が現れ、谷底へ落ちていく大師を抱きとめました。


そして、釈迦如来が「一生成仏」の宣を授けたといいます。
そこで弘法大師は後に釈迦如来を刻み本尊とし、堂宇を建立し、山号も我拝師山と改め、四国霊場としました。
これが、出釈迦寺の始まりの伝説です。


その後、四国を巡錫していた弘法大師は、懐かしく思って山頂にある「捨身ヶ嶽禅定」(400m)に登り、虚空蔵菩薩を刻んで安置したといいます。
ここは、出釈迦寺の奥の院になっています。
この捨身ヶ嶽禅定は、出釈迦寺から1.8kmのところにあり、歩いて約40分ほどかかります。



私たち夫婦は山を眺めてここからここから参拝



つぎの札所74番:甲山寺まで2.2km

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