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四国八十八ケ所車で遍路の記録/ 第54番延命寺・第55番南光坊

菩提の道場:第40番~第65番札所:伊予の国(愛媛県)


2020年1月14日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月14日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年7月9日に再度公開しました。


第1番札所から967.5㎞
第54番延命寺(えんめいじ)
山号:近見山(ちかみざん)
院名:宝鐘院(ほうしょういん)
宗派:真言宗豊山派
創建:伝:養老4年(720)
開基:伝:行基、聖武天皇(勅願)
御本尊:不動明王
☎:0898-22-5696


駐車場:有料(志納金制)、普通30台、大型6台
境内内にあります。


西瀬戸自動車道(しまなみ海道)・今治ICから国道196号を大西町方面へ。さらに県道38号を。約5分。


交通機関
JR予讃線今治駅から約5km


真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん
御詠歌:くもりなき 鏡の縁を ながむれば 残さず月を うつすものかな



仁王門
朱塗りの仁王さん。


脇を通ると中門(山門)
中門山号扁額「近見山」
境内の入口では、元々今治城の城門の一つで天明年間の建造といわれている総けやき造り単層の中門が迎えてくれます。
明治3、4年に今治城を取り壊したときに譲り受けたそうです。
脇を通り駐車場に向かいます。


鐘楼
鐘の周囲には寺の歴史が細かく刻まれて
いるらしいがよく分からない。梵鐘は近見ニ郎と立て看板に書かれていた。

口径62㎝、高さ112㎝で宝永元年1704年とのこと。
延命寺の梵鐘は太郎・二郎・三郎と三代あります。

 古くからの梵鐘は戦いの合図に使われ、夜になると誰もたたかないのに鳴り出すという噂が流れたので海に沈めたといわれています。
現在の梵鐘は、宝永元年(1704年)に時の住職が自らの財で鋳造したものです。


この梵鐘のそばに、元禄年間(1688~1704年)に農民の窮乏を救うために年貢米を軽くすることを代官に直訴した土地の庄屋、越智孫兵衛の墓があります。


本堂


大師堂
さらに石段をあがる。
不動明王は王冠をかぶっている。あまり見受けない珍しい仏像です。



延命寺は、天平年間(729~749年)聖武天皇(在位724~749年)の勅願により行基が不動明王を刻んで開基しました。

後に弘法大師が巡錫し、四国霊場になりました。


 当初は、今治西北の近見山頂に建っていて、嵯峨天皇(在位809~823年)の勅願により弘法大師が再興したときは、近見山円明寺と名付けられました。
七堂伽藍も建てられ、大いに栄えましたがたび重なる兵火のため寺勢が次第に衰え、天正年間(1573~1592年)に現在の場所に移りました。
明治以前までは第53番・円明寺(松山市)と同じ寺名でまぎわらしかったが、明治初期に現在の寺名・延命寺に改められました。


次の第55番札所・南光坊まで約4km


今治城
近くに今治城があるが時間的余裕がなくパス。次回お遍路するときは是非拝見したい。
最も天守閣は昭和55年の再建らしい。


第1番札所から971.5㎞
第55番南光坊(なんこうぼう)
住所:愛媛県今治市別宮町3丁目1番地
山号:別宮山(べっくざん)
院名:金剛院(こんごういん)
宗派:真言宗醍醐派
創建:伝:大宝3年(703)、異説:和銅5年(712)
開基:伝:行基
御本尊:大通智勝如来(秘仏)
☎:0898-22-2916
駐車場:無料、普通20台、大型1台
交通機関
JR予讃線今治駅から約500m
西瀬戸自動車道(しまなみ海道)・今治ICから県道38号を今治駅方面へ。約10分。
または、国道196号線片山交差点を左折、今治市街方面へ直進。今治大丸の前を左折、約500mの左手


真言:おん まか びじゃな じゃなのう びいぶう そわか (なむ だいつうちしょうぶつ)
御詠歌:このところ 三島の夢の さめぬれば 別宮とても おなじ垂迹


駐車場はお寺の中、山門は国道沿いに建っている。山門の内側に駐車し山門を撮影するため山門より外に出て撮影した。


山 門


二層
山門扁額『日本総鎮守三島地御前』
南光坊の壮大な山門は仁王像ではなく、四天王像が守っている。四天王像(持国天、広目天、多聞天、増長天)が見下ろしています。


持国天(東の神
不変不動な国造りの法力を与えるといわれ安泰や安全の象徴として家内安全や交通安全の神といわれています。



広目天(西の神)
大きな心で視野を広げ正しい知識を持てば災厄を除け無量の寿命を得られることから健康長寿の神とされています。



増長天(南の神)
無尽の宝を生み出し多くの増益を与えてくれると言われることから商売繁昌や事業安泰の神とされています。



多聞天(北の神)
多くの事を聞き学び知恵をえて財宝を生み出す力を得る事から金運招来、出世成功の神といわれています。


本堂


大通智勝如来(秘仏)
本尊の大通智勝如来は釈迦如来の第16番目の弟子で、大通智勝如来を本尊にしているのは、四国霊場ではここ南光坊だけです。


『法華経』の化城喩品第七に説かれている仏で、大山祇大明神の本地とされて河野水軍に信仰された。


弘法堂
宝珠造り


川村驥山の菅笠があります。(写真はありません)


金比羅堂(讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。
(写真はありません)


四国霊場中、寺名に「坊」が付くのはここ南光坊だけです。
これは、瀬戸内海にある大三島の大山祗神社の別宮として創立されているからです。
大山祗神社は航海の安全祈願の神・大山積神が祀られています。


大山祗神社に参拝するには瀬戸内海を渡らなければならず、とても不便なことでした。
そこで、参拝しやすいようにと和銅5年(712年)、24坊のうち8坊を四国本土に「日本総鎮守三島の御前」として祀らました。


その8坊のうちのひとつがこの南光坊です。
後に弘法大師がこの坊を訪れて祈願し、四国霊場としました。
天正兵火によって8坊のすべてが焼けてしまいましたが、この南光坊だけが別宮の別当寺として再興されました。
慶長5年(1600)藤堂高虎公の祈願所として薬師堂が再建された。
  江戸時代には、藩主・久松公も祈願所として信仰された。


  明治初年の廃仏毀釈では、本地仏として社殿に奉安していた大通智勝来と脇侍・弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷し、別宮大山祇神社と分離されました。
 本尊の大通智勝如来が移されたのは明治に入ってからです。


  昭和20年8月、太平洋戦争の空襲により大師堂と金比羅堂を残して焼失しました。
  現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春、仁王門は平成10年に再建されました。
別宮大山祗神社は南光坊の隣にあります。


滋賀県にも南光坊があります



南光坊→3.0km→56番:泰山寺

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