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四国八十八ケ所車で遍路の記録/第52番太山寺・第53番圓明寺

菩提の道場:第40番~第65番札所:伊予の国(愛媛県)
菩提の道場
2020年1月14日公開
2020年8月25日一部修正 寺名記入
2020年1月14日公開しその後寺名記入した記事ですが、リライト記事に必要な文言を
追記他の部分(写真等)追加・修正して2021年7月2日に再度公開しました。


第1番札所から927.2㎞
51番:石手寺→13.9km
第52番太山寺(たいさんじ)


住所:愛媛県松山市太山寺町1730番地
山号:龍雲山(りゅううんざん)
院名:護持院(ごじいん)
宗派:真言宗智山派
創建:伝:六世紀後半
開基:伝:真野長者
御本尊:十一面観世音菩薩
☎:089-978-0329
駐車場:無料、普通50台、大型5台
松山自動車道・松山ICから国道33号、国道196号を。約35分


交通機関
JR予讃線松山駅から約10km
真言:


御詠歌
太山に 登れや汗の 出でけれど 後の世思えば 何の苦もなし


ここは門が三つあります。
一の門:冠木門に切妻屋根を架けた簡素な門。


二の門(仁王門)
入母屋造八脚門、国の重要文化財


三の門(四天王門)
入母屋造楼門


一の門から本堂までは0.8kmある。


山門
ここを右手に入っていくと駐車場へ
山門寺名扁額『太山寺』
門の両側には
福聚海無量(左聯)、慈眼視衆生(右聯)
と書かれています。

まず目につくのが大日如来像
横に石の鳥居がある


石段を上ると四天王を祀る二層の楼門がある。

中門
山号扁額『瀧雲山』
二層式の立派な門
仁王門の中側には「大悲閣」の額があった


三の門
四天王門

三の門内側

香炉・庫裏・納経所

袴付きの鐘楼が美しい。ここの鐘は重要文化財に指定されている。
内部には地獄絵が絵描かれている。とても写実的であった。





本堂  国宝
鎌倉時代 嘉元3年(1305年)再建
「観音院」の扁額   
当寺の本尊は、「十一面観音菩薩」
本堂前にマニ車がある。(写真はありません)
このマニ車は車のタイヤのような形前にくるくる回します。
他のお寺は横に回すのが多いです。
このマニ車は広島の宮島と同じ形です。
このマニ車を回すことで、回した回数部分、般若心境を唱えた分の徳を得られるとのことです。

本堂屋根


本堂左手の階段を上ると大師堂  
工事中でした


大師堂の傍に三重塔の礎石があった。この礎石を新品のたわしでこすると痔が治ると言われています。


聖徳太子堂


長者堂


 なぜここは開基が真野長者なんだろうと調べると、次のように説明があった。
長者が一夜にして御堂を建てと。長者は豊後の国の(今の大分県)ふいごで炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、以来運が開け大富豪となった。
用明2年(587)商いのため船で大阪に美香宇時暴風雨に遭い観音様に無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工巧を集め間口66尺奥行き81尺本堂を建てる木組みを整え船積みし、順風を受けて高浜に到着、夜を徹してくみ上げ、朝日が上がるころ本堂は建ち上がった。以来「一夜建立の御堂」と伝えられる。と説明書きにありました。


昔話
一夜建立のお堂(炭焼き小五郎が真野長者になったお話)
奈良の都のお姫さま、玉津姫には顔に黒い痣がありました。
三輪の明神に祈ると、夫となるものは豊後の国の炭焼き小五郎であるとのお告げがありました。
それで姫は豊後の国まで行き、小五郎を訪ねるが、小五郎は非常に貧乏な生活をしていました。
姫は小五郎に小判を渡すが、小五郎はその小判を川に投げてしまいました。
姫が「なぜ?」とたずねると小五郎は「あんな小判は炭焼き窯のそばにたくさんある」といい、二人が行ってみると本当に小判が山のようにありました。
姫がそこの淵で顔を洗うと痣も消えてしまいました。
この小判で二人は大金持ちになりました。


ねじれ竹(写真はありません)
太山寺の参道途中に、縄のようにねじれた約8mの青竹があります。かつて遍路宿で現在は茶屋を営む布袋氏宅にあります
昔、太山寺の境内にあった布袋屋(ほていや)という遍路宿に男女のお遍路さんが泊まりました。宿に着くと、持っていた青竹の杖を上り口にそのまま置いて部屋に入ったのを、たまたま泊まりあわせていたお坊さんがこれをみて、[お前達は四国巡りを信心して巡っているのではないな。]


お遍路をすることで、重要な事は、輪袈裟をしたままトイレ、食事はしない、杖は橋の上でつかない、宿に入る前によく洗い
床の間に置くこと。など


金剛杖はお大師さま。自分の足を洗う前に金剛杖を洗い、床の間に置くはずだが。
言われた二人は早速上り口に行き、青竹の杖を洗い部屋へ持って行こうとした時、杖がねじれてからみ合ったのです。二人は真青になり杖を持ってお坊さんのところへ行くと、お坊さんは、「お前達に何か罪があるからこうなったのじゃ。罪を懺悔(ざんげ)しなければ四国巡りはできないぞ。」と言ったのです。二人は主人の目をぬすんだ不義の仲と言う事を告白すると、お坊さんに「心新たに別々に四国巡りをしなさい。そうすれば罪も許されよう。」と諭され、別々に四国巡りをすることを誓った二人に、お坊さまは後の戒めのためにねじれた二本の青竹の杖を庭にさし、お大師さまのお陰があれば根が付き枝葉が茂り栄えるだろうと言いました。
その後遍路は竹の杖ではなく木製の金剛杖を使うようになったそうです。


太山寺→2.5km→53番:圓明寺


第1番札所から929.5㎞
第53番圓明寺(えんみょうじ)
住所:愛媛県松山市和気町1-182番地
山号:須賀山(すがざん)
院名:正智院(しょうちいん)
宗派:真言宗智山派
創建:伝:天平勝宝元年(749)
開基:伝:行基、聖武天皇(勅願)
御本尊:阿弥陀如来
☎:089-978-1129
駐車場:無料、普通10台、大型3台
松山自動車道・松山ICから国道33号、国道196号を。約30分


交通機関:
JR予讃線松山駅から約8km
真言:おん あみりた ていぜい からうん
御詠歌:来迎の 弥陀の光の 圓明寺 照りそう影は 夜な夜なの月


天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が、本尊阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基。創建時は和気海浜坂浪西山にあり「海岸山圓明寺」と称し、七堂伽藍を備えた大寺でした。


後に弘法大師がこの地を巡錫した際、荒廃した諸堂を整備し四国第53番霊場と定めました。しかし鎌倉時代に幾度か兵火により荒廃、元和年間(1615〜24)に須賀専斉重久がその私財をもって現在地に再興。須賀専斉重久の名前をとり、須賀山 圓明寺と称します。


八脚門 重要文化財
圓明寺の山門は本瓦葺の八脚門(やつあしもん)
室町時代作といわれます。
目玉がぎょろりとした仁王さんが迎えてくれる。


山門山号扁額 須賀山

中門 二層式 楼門


山門から真正面にある境内中央にそびえる中門
中門扁額『遍照金剛』
仁王門を入り少し行くと鐘楼門があった。鐘楼門で御接待の準備をしていた。


本堂
本尊は秘仏です。
多聞天と増長天が両脇を固めており、
阿弥陀三尊仏像の両脇に侍立する観音・勢至の両菩薩像は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財に指定されています。

本堂の右上・鴨居にあり高さ約1m・幅5mの巨大な龍の彫り物が施されていました。
欄間から頭を斜め下に飛び出し、躍動感にあふれた彫刻です。
今にも動き出しそうな躍動感に満ちた龍は、一説には名工・左甚五郎の作といわれている。
行い悪い人が見ると目が光るとい言われています。


大師堂
弘法と書かれた扁額
太子堂もかなり立派だった。

キリシタン石塔
寛永年間のキリシタン灯籠があることでも知られています。
大師堂左の塀ぎわにあり、高さ40cmほどの灯籠。
聖母マリア像を浮き彫りにしています。
キリシタン禁制の時代、愛媛県内に「キリシタン碑」らしい存在は多く確認されており、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようです。


観音堂(写真はありません)
慶長5年の銘がある十一面観音像が安置されています。慶長5年は1600年で、関ヶ原の戦いがあった年です。


銅板納札
この寺の寺宝は、本尊の厨子に打ち付けられた銅板性の納札
京都の樋口平人家次が奉納したという破損のない銅板納札(松山市文化財指定)が保存されており、現存最古で例のない銅板製(縦24cm・幅9.7cm・厚さ1mm)です。江戸時代の初期・慶安3年(1650)の銘があり、また初めて「遍路」の文字が記されており遍路の歴史を知る上で貴重な資料と言われています。
 この納札を発見したのは大正13年3月にシカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている時で、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあり、札には「四国仲遍路同行二人 平人家次」と銘があります。樋口平人家次は、京都の五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られています。


これは八十八か所でも最古の納札だそうです。別に保管されており見ることはできなかった。昔は木製のもの、金属製のものなどがあったようです。



圓明寺→34.4km→54番:延命寺

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