奈良県 手向山八幡宮
手向山八幡宮 たむけやまはちまんぐう
創建:749年(天平勝宝元年)
祭神:八幡大神(応神天皇)
手向山八幡宮の創建は古く、749年(天平勝宝元年/奈良時代)と伝わっており、手向山八幡宮が創建された理由は。
大仏造立の最中、材料となる金が調達できず、工事は予定通りなかなか進みませんでした。
この様な状況のなか、聖武天皇が大仏建立を諦めようとしていた時、宇佐八幡の神が枕元に立ちこう告げたといいます。
「金は必ず入手することができるでしょう。そして大仏建立は成ります。」
この話を聞いて聖武天皇は、これは霊夢(れいむ/お告げ)であることを悟り、急ぎ、九州・福岡の位置する「宇佐八幡宮」からご分神を東大寺へ勧請(招く)するように勅令を出します。
この後、宇佐八幡宮から東大寺へ宇佐八幡の神が移されることになりますが、東大寺近くまで来たとき、宇佐八幡の神を転害門から迎え入れて盛大な催しを執り行ったようです。
その後、宇佐八幡の神を祀るために社(やしろ)を造営することになりますが、このときに造られた社こそが現在の手向山八幡宮の起源となります。
菅原道真の「腰掛石」と歌碑です。実際に腰を掛けてみました。道真は898年10月朱雀院
(宇多上皇)が吉野の宮滝から、竜田山を越え河内に入り住吉神社に詣でて御行されたとき随行し「手向山」にも立ち寄り「百人一首24」に載った「古今集」の和歌を詠んでいる。
「この旅は幣(ぬさ)もとりあえず手向山 紅葉の錦神のまにまに」
この時54歳、左大臣に昇格する前年で、それから3年後筑前の太宰府に左遷されてしまいます。そこで最後を迎えました。
それぞれ同じ校倉造りが建っています。南側が「手向山八幡神輿蔵」北側が「法華堂経庫」です。写真は神輿蔵
ここのみこしを転害門の前でお祭りが行われます。
この様な校倉は、奈良、平安時代の中央および地方の官庁や大寺院に必ずあります。校倉の棟が集まったところが正倉院です。長い年月でほとんどの校倉は取り壊され今も残っているのは、ここと唐招提寺、そして東大寺の正倉院の校倉1棟だけとなっています。
また、法華堂経庫の南側に十三重の石塔がありますが、これは大仏殿の再建時に使用された女性の黒髪のロープを埋めて祀っています。