知多新四国八十八ケ所霊場の旅 五十一番札所 鶴林山 野間大坊
知多四国霊場 五十一番札所
鶴林山 野間大坊
愛知県知多郡美浜町野間東畠50番地
宗派:真言宗豊山派
創建:承暦年中
御本尊:開運延命地蔵尊
☎:0569-87-0050
駐車場:あり
交通機関
名鉄新知多線野間駅下車徒歩12分
御詠歌
昔より いとも名高き 大坊に 白豪の光り 見るぞ嬉しき
参道から客殿入口へと立つ赤い杭は本四国八十八ヶ所のお砂踏み場で、賽銭箱なのか小銭が置かれていました。
参道のは四国51番~88番で、1番~50番は客殿中庭に設けられています。
建久元年(1190年)、源頼朝は父義朝憤死のこの地を訪れ、家臣鎌田政家と平康頼の墓、池の禅尼の経塚(自ら経文を書写し担当を添えて埋め、後世発掘して宝物とす。)を築き、ついで本堂、講堂、食堂、経堂、開山堂、鐘楼、浴室、五重塔、大門、客殿など、大伽藍を再建し、高野山の僧侶を講じて大法要を行ったという。
(この時から真言宗に改宗する。)そして、父の敵である長田忠致親子を父の墓前にて磔にし、その霊をなぐさめたといいます。当野間大坊の本尊である開運延命地蔵菩薩は源頼朝の守り本尊であったものと伝えれています。
頼朝が平清盛に捕らえられて斬られようとした時、清盛の継母、池の禅尼の勅命で遠島となった時、尼は守り本尊として地蔵様を頼朝に授けたと言います。以来頼朝はこの像を敬い続け、ついには天下を掌握しました。頼朝はこの地蔵を開運延命地蔵菩薩と名付け、父義朝の廟参と供養の記念として奉安したそうです。
その後頼朝の開運出世にちなんで、帰依した将軍、武将は数知れず。大願成就の不思議な御利益を授かったといいます。
現在の住職は、徳川家康の従兄弟、長円上人より十四代目に当たり、代々世襲されているそうです。
「知多四国めぐり」より
頼朝公奉安の地蔵菩薩を本尊とする
大御堂寺を左に進むと、目の前に野間大坊入口が現れます。
野間大坊は大御堂寺の通称で、大御堂寺の一院として創建。
建久元年(1190)源頼朝が父義朝の菩提を弔うため、開運延命地蔵菩薩を奉安したとあります。
この地蔵菩薩が野間大坊の本尊となっています。
客殿
野間大坊の本堂的なイメージですが、ここでは客殿という表現になっています。
現在の建物は寛永年間(1634~44)に、秀吉晩年の居城であった伏見桃山城の一部を移築したものだそうです。
客殿とされてますが、本尊である開運延命地蔵菩薩が安置されており、野間大坊の本堂と言ってもいいかと思います。
現在では何度も書いていますが大御堂寺も野間大坊が管理している関係上、本堂を大御堂寺本堂とし、野間大坊の本堂を客殿としているんでしょうか。
こちらの客殿には、知多四国霊場の弘法大師像も安置されております。
現在、愛知県の重要文化財に指定されているそうです。
内部の撮影は禁止されています。
この中は有料一人3000円
庭はお砂踏みが出来ます。
本堂
悠紀殿(ゆきでん)
参道右脇の建物は「悠紀殿」と称し、昭和天皇即位後、初めての大嘗祭のために京都御所内に建てられた建物の一部だそうです。
当山13世法印興円阿闍梨の尽力により、昭和4年(1929)、下賜され移築された建物と説明があります。
悠紀殿の本尊は平安時代末期作の「大日如来」で、焼失した五重塔の本尊として祀られていた尊像だそうです。
開扉されていれば、中を覗けたのですが、この日はしっかりと閉ざされていました。
「源義朝最後の地」という事で、大河ドラマで平清盛が放送されました。



















