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知多新四国八十八ケ所霊場の旅 五十番札所 鶴林山     大御堂寺【野間大坊】

知多四国霊場 五十番札所
鶴林山 大御堂寺(おおみどうじ)
【野間大坊】
住所:愛知県知多郡美浜町野間東畠55番地
宗派:真言宗豊山派
創建:天武天皇(673-686年)
御本尊:阿弥陀如来


☎:0569-87-0050
駐車場:数か所あるが、正面駐車場が便利


交通機関
名鉄新知多線野間駅徒歩12分


御詠歌
大御堂 弥陀の光りを 眺むれば  後生を願ふ 心起らん
ここは見所が多く、計画では40分としたがやはり1時間は必要だろう。


大 門
本堂正面にある大門です。
源頼朝により建久元年(1190年)に創建された物なのだそうです。
この野間大坊には、建久元年に上洛の途中この地に立ち寄った頼朝によって父義朝の法要が営われ、その際様々な伽藍などが建立されたんだそう。





大御堂寺本堂は三度の火災等に遭い、現在ある建物は宝暦四年(1754)に鎌倉様式に則り再建されたものです。
桁行五間、梁間五間本瓦葺の入母屋造で、外陣・内陣を格子で仕切り、外陣は柱のみの吹放しになってます。


二軒繁垂木や出組で大きな屋根を乗せているが、大棟の幅が短く独特な屋根を形成しています。
正面の軒下には『大御堂寺』の扁額が掛けられてますが、目立った感じは無く周囲によくとけ込んだイメージになっています。
本尊は、藤原時代快慶の作といわれる阿弥陀三尊像です。
阿弥陀如来を中央に、脇侍は観音菩薩と勢至菩薩。


札所50番の弘法大師も本堂内右側に祀られています。
従って、弘法堂はありません。



血の池
平治元年(1159年)、義朝を討った長田忠致親子が義朝の首を洗った池とされています。
伝承では国家に一大事があったときは池の水が赤く染まるという言い伝えがある。

【野間大堂】
正式な名前は「大御堂寺(おおみどうじ)」であるが、野間大坊の名の方がことのほか有名である。この地は、平治の乱で敗れて逃げ落ちた源義朝が暗殺された地であり、野間大坊に義朝の墓がある。


平治元年(1159年)、戦に敗れた京都から逃げ延びた源義朝は、わずかな近臣と共に東国を目指していた。そして共に落ち延びていた鎌田政清の舅に当たる、長田忠致の住む野間に辿り着く。ところが忠致と息子の景致は、平家の恩賞目当てに裏切りを果たし、義朝の入浴中に暗殺する。


こうして非業の死を遂げた義朝の墓であるが、平家の世にあって荒れるに任せていた。それを見かねたのが平康頼であり、墓を整備して小堂を設け、田を寄進して供養するように計らった。そして平家滅亡後の建久元年(1190年)には、息子の源頼朝が上京の折に野間の地を訪れ、父の墓参をおこなっている。


この頃から「大坊」と呼ばれるような立派な伽藍を備える寺院となったようである。その後も武門の棟梁の終焉の地として、武家の手厚い庇護を受けることになる。

鎮守の社
大御堂寺には、鎮守の社が二社鎮座しています。
悩み不眠除け稲荷社

鐘楼堂
この中に、第五代鎌倉幕府将軍藤原頼継公が寄進したという梵鐘があります。
梵鐘には建長二年(1250年)の刻印があり、尾張地方最古の梵鐘とされています。
戦時中も此処の鐘」には手を出さなかったようです。


それだけ、由緒ある梵鐘なのです。
大御堂寺本堂から野間大坊に向う途中に見える、一見楼門かと思った程の形状を持つ鐘楼堂です。

源義朝公墓所
この源義頼の墓所は周囲を石垣で囲まれています。石垣の中には、義朝の墓以外にも、
義朝の忠臣”鎌田政清”夫妻の墓、
源頼朝の助命をした平清盛の継母である池禅尼の供養塔かあります。


織田信長の三男”信孝”の墓
が安置されています
信孝は、柴田勝家と共に戦い敗れて、次男の名の元に切腹させられた。
これも秀吉の策謀であった。


じせい
【昔より 主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前 】と詠んだ。


源義朝公の墓所には、無数の木刀(卒塔婆)が供えられています。
元々は、源義朝が長田親子の裏切りにより殺されるときに叫んだとされる言葉に由来して木刀を備えるようになったはずが、よく見たら絵馬みたいに願い事が書かれるようになっています。
いつの間にやら、義朝公は人神になられていた様です。


義頼が叫んだ言葉とは
義頼が長田親子に襲われた場所は、野間大坊からほど近い場所にある曇華山法山寺の湯殿でした。長田親子の屋敷に逗留中、初湯に招かれた義朝は、法山寺の湯殿で入浴中、長田親子に襲われ命を落とします。


剣術の達人でもあったとされる義朝は「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と叫んだとされます。


平康頼供養塔
大御堂寺を再興させたという平康頼公の供養塔

経蔵ではありません。
マニ車で、周りには梵字が書かれています。
これを、時計まわりに回し願い事をします。
きっと、願いは叶うことでしょう。



◆源義朝
1123-1160。河内源氏の棟梁。源頼朝の父。父の代に京都での勢力を弱めるが、東国で武士団をまとめ上げ盛り返す。保元の乱(1156年)には平清盛と共に戦功を上げるが、後に対立。平治の乱(1159年)に源平の間で戦となるが、敗れる。


◆鎌田政清
1123-1160。母親が源義朝の乳母であったため、幼少時より乳兄弟として義朝のそば近くに仕える。義朝暗殺と同時に、長田景致に殺される。墓は妻(長田忠致の娘)と共に義朝の墓のそばにある。


◆長田忠致
?-1190?。尾張の野間を本拠とする。頼って来た、主の源義朝と婿の鎌田政清を暗殺し、平家方に寝返る(政清の妻であった娘は、その直後に自害したと言われる)。源頼朝挙兵の際に源氏方に戻るが、頼朝からは「働き次第で美濃尾張を与える」との寛大な扱いを受けて奮戦するも、平家滅亡後は主殺しの罪で捕らえられ酷い方法で処刑されたという。捕らえられた時、頼朝からは「約束通り“身の終わり”を与える」と言われたとも。


補足
◆平康頼
1146?-1220。平清盛の甥である平保盛の家臣。保盛が尾張国司となった際、目代として当地に赴任。その時に義朝の墓を修繕した。この噂が京都まで聞こえると、後白河上皇のそば近くに取りたてられる。その後、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として捕縛され、鬼界ヶ島に流されるが、赦免される。遠島の時に出家をしていたが、鎌倉幕府成立後、源頼朝より阿波国の保司に任ぜられたとの記録も残る。


本堂前の案内看板に従って進むと野間大坊に行けます。



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