年金人生爺婆の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

奈良県       東大寺

東大寺
駐車場は近くにあります。1000円
ですからここに駐車して、春日大社まで足を延ばす人が大半。また興福寺まで歩く人もいます。両方拝観して1日位かかります。
728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺が東大寺建立が始まりです。
741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺。743年に聖武天皇が大仏造顕の詔を公布、745年に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺と改名されました。大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのはもっと遅く789年になります。
その後1180年に平重衝によって焼失。1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は1709年に再建されたものです。


南大門
長年風雨に耐えてきた木材の古色が良いのが南大門です。それは立派です。
そして、南大門の左右に構えるのは、金剛力士像(仁王像)。
像高は8.4mもあります。これは現存する最大の門で、最大の金剛力士像(仁王像)です。
門に向かって左が阿形(あぎょう)、右が吽形(うんぎょう)ですね。
鎌倉時代の大仏師である運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らを中心とした20数名の仏師が、わずか69日間で造立したといいますので、寝食を忘れて没頭したのでそうです。


大仏
「奈良の大仏さま」こと本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)。
大仏さまの右手は「畏れることはない」という意味を、左手は「人々の願いを叶えよう」という意味を表しています。
大仏の製造にも困難がありました。
像の高さは、14.98m(創建当時は、15.8m)あります。幅は約12mです。大仏の重さは、約250t、台座が約130tです。
奈良の大仏は、創建時は金メッキが施され、光り輝いていました。鋳造された大仏に、水銀と金を練り合わせたものを塗った後、炭火で水銀を蒸発させて表面に金だけを残す方法が使われました。この製造により多くの人たちは水銀中毒となったと思われます。使われた金は400㎏以上、水銀は、2.5tです。金は、陸奥をはじめ、日本全国から献上されました。
ところで、大仏といえば、奈良、そして、鎌倉を思い浮かべると思いますが、どっちの大仏が大きいと思いますか。奈良の大仏の像高は、14.98mに対して、鎌倉の大仏は11.39mです。大仏殿の中に座っておられるか、露座かによって、人に与える大きさのイメージも変わります。いかれた方どう思いますか。私は鎌倉の大仏のほうが大きいと感じました。それと、大仏に中に入れることに驚いた。


大仏殿
仏が大きいのですから、大仏を祀る大仏殿も巨大です。東大寺の金堂(本堂)です。大仏殿は、大仏とともに国宝です。大きさは、幅57.5m、奥行50.5m、高さ49.1mもあるのです。二階建てのように見えますが、もこしがあるからです。
奥行き、高さは創建時と同じ大きさですが、幅が三分の二程になっています。


鴟尾(しび)
大仏殿の大棟の左右に燦然と輝いているのが、鴟尾(しび)です。これが何のために設置されているのかと言いますと、火除けと考えられています。唐招提寺にも同じ形のものが設置されています。
魚が水面から飛び上がり、しっぽが水面に出たものと考えられ、そうしますと屋根が水面になります。水面下にある建物は、水中にあるわけですから、燃えないと考えられています。

最後に一つ
東大寺大仏殿正面中ほどに、観相窓(かんそうまど)と呼ばれる窓があります。この窓が開くと、大仏の顔を大仏殿の外側からも見ることができます。年2回開きます。
このような仕掛けは他の仏像を安置しているところでも見かけます。
この窓が開くのは元旦、午前0時~8時と、万灯供養会(8月15日)19時~20時です。光に照らされた優しい大仏のお顔を見ることができます。一度でいいから見てみたいものです。


855年、地震で大仏の頭部が落ちます。縁起悪いですね。また、平安時代末期、平家に歯向かう奈良の寺院勢力に対して、平重衡が南都(今の奈良)を焼き討ちします。戦火が拡大し、東大寺、興福寺の建築物、仏像の大半を焼き尽くされました。
せっかく再建された大仏と大仏殿でしたが、戦国時代、将軍足利義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀が主導権を巡って、まさに大仏殿の前で戦いました。東大寺大仏殿の戦いと呼ばれています


東大寺大仏殿の戦い
永禄10年(1567年)4月18日から
10月11日のおよそ半年間にわたり、
松永久秀、三好義継と三好三人衆、
筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で
繰り広げた市街戦のことです。
松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも
戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれています。


松永秀長が大仏殿に火をかけ、大仏殿は焼け落ちました。その後、仮堂で復興しましたが、大風で堂が倒壊、大仏の頭も落ち、これで2度目ですね。雨ざらしの首なし状態が続きましたが、江戸時代になって再建されました。


大仏蓮弁
当所の部分が最も多いのが大仏の台座。その蓮弁には「蓮華蔵世界図」が線刻されています。蓮の蓮弁にも同様の釈迦如来を中心に数多くの菩薩が線刻されています。これらは、仏教の世界観をあらわしたものとして貴重であるので是非よく見てください。これは当初から残る貴重なものです。


八角燈籠(国宝)
大仏殿の前に建つ八角燈籠。東大寺創建当初のものです。
中門から大仏殿までの中ほど正面に4m超の大きな灯篭が立っています。これが、度重なる兵火で焼失したものが多い東大寺にあって、創建当時の姿を残す数少ないものの一つです。火袋羽目板を見ると。楽器をもった菩薩の見事なレリーフを見ることができます。




鐘楼 (国宝)
国宝承元年間(1207~1210年)に再建された鐘楼
中に吊られている梵鐘(ぼんしょう)は、東大寺創建当初の奈良時代のもので、こちらも日本三名鐘の一つとされ、「奈良太郎」という愛称でも呼ばれています。
重さは26.3トンもあります


二月堂に向かう途中にある「大湯屋(おおゆや)」と呼ばれる鎌倉時代のお風呂(鉄湯船)


法華堂(国宝)
二月堂 
二月堂に向かう途中にある珍しい建物が、「大湯屋(おおゆや)」と呼ばれる鎌倉時代のお風呂(鉄湯船)。
こちらは、毎年3月1日から2週間に渡って行われる「お水取り」こと「修二会(しゅにえ)」の舞台。二月堂の真下にある小さなお堂も、見どころスポット。お堂の中には、井戸(若狭井)があり、この水を汲んで、二月堂のご本尊、十一面観音にお供えする行事が「お水取り(修二会)」と呼ばれる宗教行事です。
二月堂は平重衛の兵火(1180年)三好・松永の戦い(1567年)の二回の大家にも焼残りました。しかし、寛文7年(1667年)お水取りの最中に失火で焼失してしまいます。二年後に再建されたのが現在のお堂です。本尊は大観音、小観音と呼ばれる二体の十一面観音菩薩像です。これは何人も見ることが許されない絶対秘仏です。
福井若狭のお水送りに始まり、ここでその水を汲むのですね
また、ここは24時間自由に拝観、無料 国宝なんですよでも自由
二階のテラスからは奈良市内が一望できます。


四月堂(三昧堂)さんまいどう
1021年(治安元年/平安時代)
二重・寄棟造で初重もこし屋根付き
あまり大きくありません。
現在のお堂は延宝9年(1681年)の再建、本尊の千手観音明治36年。客仏として法華堂からここに移されたものです。
十一面観音菩薩は現在の御本尊(2013年より)
千手観音菩薩立像(旧・御本尊、出張中・奈良博物館)
ここは本尊がよく変わります。この前は普賢菩薩像でした。
普賢菩薩立像
阿弥陀如来坐像
薬師如来坐像
普賢菩薩騎象像(象の上に乗っています)
立派な仏像が多くあるのですが、中に入り拝観する人は数人ここは土足では入れません。
あまり観光客は立ち寄りません、素通りですね。そして若草山に行きお弁当を食べる人
が沢山行きます。

×

非ログインユーザーとして返信する