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知多新四国八十八ケ所霊場 の旅 二十一番札所 天龍山 常楽寺

知多四国霊場 二十一番札所
天龍山 常楽寺
住所:愛知県半田市東郷町二丁目41番地
ここは広い、今まで廻ってきたところは小さくて
すぐ隣の霊場もあった。
出来たら、各寺はホームページ作成していただくといいですね


宗派:西山浄土宗
創建:文明16年(1484年)
御本尊:阿弥陀如来
御詠歌
常楽の彼岸にやがて到らまし 御名唱ふるは報恩のため



文明16年(1484年)諸国遊化の途中、当地に立ち寄られた「空観栄覚上人」が応仁の乱の戦没者供養のためにと発願し、もともと天台宗の寺院「仏性寺」を浄土宗に改宗し中興開山し、この時、寺名も「天龍山常楽寺」に改称しています。
 常楽寺八世住職「典空顕朗上人」は徳川家康の母「伝通院(於大の方)」の妹の子で家康とは従兄弟の間柄だった事もあり、家康は人生の節目で「常楽寺」を訪問する事になります。
一度目は「永禄3年(1560年)」
 桶狭間の戦いにおいて、今川義元が討ち死にし、尾張国に進出していた今川軍は総崩れとなってしまいます。この時、大高城に入城していた「松平元康(徳川家康)」は織田方の緒川城城主「水野信元」の軍勢に包囲されてしまいます。 松平元康と水野信元は伯父と甥の関係であり、いくら敵方とはいえ討ち取る事が出来ない水野信元は、包囲の一部を解き、松平元康を大高城より逃したそうです。松平元康は、織田家の追撃軍から逃れる為、鎌倉街道を東に向かうのではなく、母「伝通院(於大の方)」の再婚先である坂部城主「久松俊勝」を頼りに知多半島方面に進んだと言われています。何時までも義理の父である久松氏の厄介にはなれないので、数日の後に、従兄弟「典空顕朗上人」が住職を務める「常楽寺」に入り、ここから船を使い、航路にて岡崎を目指した。


しかし、岡崎にも追手が迫る、家康は岡崎大樹寺においてもはやこれまでか、切腹覚悟するが受嘱に諭された。追手は僧兵が立ち向かい
いつの間にか岡崎城の今川軍は夜逃げ、家康は堂々と岡崎城に戻ることとなる、その心境はi
いくばかりか。


家康は通算3回常楽寺に入っているのです。
二度目は、織田信長の本能寺の変の逃亡、伊賀越え、今の三重県鈴鹿白子から船で常滑へそして常楽寺へ。


三度目は、豊臣秀吉の小田原城攻めの時駿府城から上洛の際に立ち寄ったと言われています。このように徳川家康とは深い因縁があるのです。
第八世の住職典空顕朗上人が徳川家康の従兄弟でもあることから,家康と縁が深いのですね。


立派な寺号が書かれた石柱がありました。


山門
知多四国霊場ではあまり見かけない立派な山門です。
門に安置されている像は仁王像ではなく、四天王のうちの廣目天と増長天が安置されています。ですから仁王門でなく二天門と呼びます。


廣目天と増長天です。


ここは、塔頭がありました。塔頭があるということはかなり大きな寺院です。真如院・遣浄院・来迎院・超世院


超世院の門
朱色が目立ちます。


手水舎



本堂
鎌倉時代のものと推定される木造阿弥陀如来立像です
国の重要文化財

本堂の屋根 三つ葉葵が見えます




ガラス越しなので・・・・・


弘法堂
中央に観音菩薩、左側(向かって右)は毘沙門天、右側(向かって左)は弘法大師が安置されています。
弘法堂の土間部分の左側部分に賽の河原地蔵尊が安置されています。背景に描かれた絵があり、冥界の世界だなと感じる。特に猫は曼荼羅にもあまり描かれていないのです。赤の絵の具がないとき猫が赤の石を咥えてきたことから猫が曼荼羅の片隅に描かれるようになったのです。


弘法大師様

観音堂(薬師堂)
何故か石段の上にあります。
薬師如来が安置されている薬師堂観音堂。
下の灯篭(両脇) 火を入れるところがなくぺっしゃんこ。


水琴窟
水をかけてみるとわずかに音がします。



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