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古都 京都      知恩院

知恩院
住所:京都市東山区林下町400
山号:華頂山
宗派:浄土宗総本山
華頂山知恩教院大谷寺
電話:.075-531-2111(代)
駐車場:近くの地下駐車場を利用
    三門前の駐車場は使用できませんので注意が必要です。


三門  上層部中央の扁額は霊元天皇の御宸筆「華頂山」の勅願


知恩院は鎌倉時代初期に浄土宗の宗祖の法然が、知恩院勢至堂の近くに建てた草案が始まりだと言われています。
1175年に浄土宗を開きましたが、浄土宗の「専修念仏」、「南無阿弥陀仏」と一心に称えればすべての人々が極楽往生できるという思想は他の仏界から激しく弾圧されたのです。弟子の不祥事も起こり四国に流罪になってしまったのです。
1211年に京都に帰ることを許されましたが、法然は翌年80歳で亡くなりました。
1234年に、弟子の勢観房源智は仏殿、御影堂、総門(この門は黒門からまっすぐ下り川の傍にあります)を建立しこの地を再興、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されたのです。
その後は応仁の乱で焼失してしまいました。この応仁の乱は京都の多くの寺が被害をこうむりました。


応仁の乱とは、室町時代の1467年(応仁元年)に将軍の後継者争いがきっかけで起きた日本で一二を争うほどの大規模な内乱のことです。これは、今の北陸、近畿、中国、四国など当時の政治の中心地を取り巻くおおきな事件でした。そのた京都市内のお寺も多くが焼けまた傷痕が残っています。この頃の室町幕府の将軍は第8代将軍足利義政。この方は慈照寺を始めとする東山文化を大成したりと文化人としては一流でしたが、肝心の政務の方はというと全く疎かったといえるでしょう。今の政治家みたいですね、決断力、指導力がなかったのです。そして子供がいないのでお弟に継がせるようしたが、自分の妻が懐妊、男子が生まれたから大騒動ここから、覇権争いが始まります。余談でした。


そしてこの乱は11年続き、120年もの間日本で争いが多発した戦国時代に突入していく原因になったことは否めません。
この時住職たちは滋賀県に逃れ、新知恩院を建てました。
現在の知恩院の伽藍は江戸時代に入り、徳川家康から秀忠にかけて建立され、その後の火災で焼失したものの三代将軍家光が再興しました。


ではこのお寺の最大の見所はと言いますと、何と言っても三門
三門は国宝です。
1621年、徳川幕府2代将軍、秀忠によって寄進され、途中火災が起こったため3代家光によって再興されたのです。
知恩院は悟りに通じる三つの境地を表わす門、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」を意味しているため「三門」といいます。
この三門は現存する三門や山門の中で日本最大級。
高さ約24メートル、幅が50メートルもの大きさがあります。初めて出会うと圧倒されてしまします。
楼上の二層内部は仏堂になっています。(山門の二層部分は仏堂が多いのです)、重要文化財に指定されている宝冠釈迦牟尼仏像や十六羅漢像が安置され、天上や壁には龍図や天女などが描かれ、荘厳な世界が広がっています。
通常は非公開ですが、特別公開がありますので、その時は内部に入ることができます。
私も一度は行ったことがあります。素晴らしい部屋でした。撮影はできません

妻です

御影堂(本堂) 国宝に指定
これままた大きいですね。
「大殿」とも呼ばれ、知恩院の中心となるお堂です。
1633年に一度焼失し、1639年に家光によって再建されました。
奥行35メートル、間口45メートルもの大きな建築物です。



集会堂(しゅうえどう)
1636年に建立された集会堂。
千畳敷の広さで、御影堂とは渡り廊下で結ばれています。
以前は僧侶の修行場として使用されています。


勢至堂
知恩院発祥の地とされています
1530年に再建されたもので、知恩院の中では最古の建築物になります。
もともとのご本尊は法然上人の御尊像でしたが、御影堂建立とともに移されたため、現在は法然上人の本地身とされる勢至菩薩像が本尊となっています。



唐門 大方丈玄関に通ずる門で、寛永18年(1641)造営された。江戸初期の建築で桃山時代の彫刻を生かしており牡丹唐草、鯉魚に乗る老人、巻物を持ち鶴に乗る老人および松を配した細かい彫刻がされています。

経蔵 重用文化財 
三門と同じ元和7年(1621)に建てられたもので、その建築様式は、唐様と和洋を取り入れた型にはまらない造形美があります。

鐘楼
高さ3.3m 口径2.7m 重さ70トン知恩院の釣鐘は京都方広寺、奈良東大寺に並ぶ大鐘と知られています。
寛永13年(1636) 鋳造されたものです。
じゃ屋の鐘を撞くときは親綱一人、子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっています。またTVでも毎年中継されています。


大方丈



補陀落池

黒門


知恩院の七不思議


①鴬張りの廊下
何のためこのような廊下造ったのでしょうね、お寺に侵入者がいたのですかね、二条城などは理解できますが、
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に通じる、全長550メートルの長い渡り廊下があります。
この廊下は歩くと鶯の鳴き声に似た音がし、静かに歩こうとするほど音が出るようになっているので「忍び返し」とも言われているそうです。
これは不審者の曲者が侵入した際に知らせる役割と、鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」と聞こえることから、仏様の法を聞く思いがするので、どちらかたと言いますと、後者ですよね。


②三門楼上に安置される「白木の棺」  (写真はありません)
中には家光から三門造営の命を受け建築した五味金右衛門(ごみきんえもん)夫婦の自作の像が安置されています。
五味金右衛門は三門を造営しましたが、工事予算を大幅に超えてしまったため、責任をとって自刃したと言われています。
白木の棺は夫妻の菩提を弔うために作られたものです。それも、その白木の棺の上に夫婦の像がお祀りしてあるのです。

➂骨だけの傘「忘れ傘」
御影堂の軒裏にある骨だけになった傘。
この傘には、当時の名工である左甚五郎が置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂建立時に、この辺に住んでいた白狐が自分の住むところがなくなってしまうと訴え、新しい住まいを作ってくれたお礼に置いていったという2つの説があるそうです。しかし、一般的には全者左甚五郎の話が多いですね、修学旅行の時もそのように聞きました。今でも傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。


⓸三方正面真向の猫
どこから見ても目が合うように描かれた猫の画があります
方丈の廊下にある杉戸に描かれた猫です。
狩野信政が描いたもので、どの方向から見ても猫と目が合うのでこう呼ばれています。
その猫の下には子猫が描かれており、親がわが子を思う心、つまりこの寺を訪れた人を見守ってくださる仏様の慈悲を表しているのです。

⓸5大坂夏の陣で大活躍「大杓子」
大方丈の入口付近の天井にある大杓子。
長さ2.5メートル、重さ30キログラムもするもので、伝説では三好清海入道が大坂夏の陣の時にこの大杓子を武器にして使ったとか、この大杓子で兵士の御飯をすくって振舞ったとも言われています。
すべての人々を救いとるということから、この知恩院に置かれたそうです。

⑥総門からまっすぐきて黒門の登り口にある大きな石が瓜生石。
この石にはたくさんの逸話があり、誰も植えてた覚えがないのに瓜が実った説、八坂神社の牛頭天王がこの石に降臨したら瓜が生えた説、石を掘ると二条城まで続く抜け道がある説、隕石が落ちた場所だという説など多くのいわれが残る不思議な石です。
この石は知恩院創建前からあったようであす。
有名なのは二条城と地下通路があった話です。


余談ですがTVなどのドラマでは総門とその前のテラス、一本橋がよく出ます。総門の前の川にかかる石橋も相当古いのですがいまだ使用されています。

⑦f襖絵 狩野信政
大方丈の菊の間の襖絵は紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまりにもうまく描かれたので雀が生命を受けて飛び去ってしまったといわれています。襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが(説明がないとよくわかりません)、狩野信政の絵の巧みさを表したと思われます。

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