古都 世界遺産 銀閣寺 東山慈照禪寺 銀閣寺のいわれ
銀閣寺 東山慈照禪寺 東山殿、東山山荘
住所:京都府京都市左京区銀閣寺町2
山号:東山(とうざん)
宗派:臨済宗相国寺派
寺格:相国寺境外塔頭
本尊:釈迦如来
創建:延徳2年(1490年)
開基:足利義政、夢窓疎石(勧請開山)
電話:075-7751-5725
駐車場:民間の小さな駐車場があります。
私は大体そこを利用
銀閣寺から右に出てすぐ5台分くらいですが穴場です。
銀閣寺 寺垣
銀閣寺の山門から玄関に至るまでの参道の左右に設けられた、高さ50㎝ほどの石積みの上に組まれた竹垣。背後の椿の生垣の足元を隠すような形となっています。
室町時代
二層の宝形造り杮葺き
東山文化を代表する寺院である。八代将軍足利義政が、文明十四年(1482年)山荘として造営にかかり,翌十五年、常御所(義政の居所)の完成をみてここに移り住んだ。
やがて西指庵(蹴鞠の遊所)、超然亭、夜泊船、会所、弄清亭(ろうせい)〈泉殿))庭などが完成し、そして長享三年(1489年)三月二日に観音殿(銀閣)が棟上げされた。
ところで
何故銀閣寺というか?
二階部分が黒い漆で塗られていて
この部分に月があたると銀色に輝いたそうです。
この山荘は後土御門天皇から東山殿の号を賜ったが延徳2年(1490年)義政が没したためその遺言により、東山殿は禅刹に改まれた。慈照寺は義政の諡号に因んで命名された。
慈照寺はその後天文二年から永禄にかかるころ(16世紀中期)兵火のため、銀閣と東求堂を残して焼失した。
そして、当時の様式を結集した、庭園内楼閣建築となっています。
銀閣寺は二層からなり、一階は心空殿、書院形式
二階は潮音閣といい黒漆塗りの板壁に花頭
窓を設えられている。桟唐戸を設けた唐様式仏殿
東宮堂は室町時代一層の入母屋造り檜皮葺でこれも西芳寺の西来堂に模して建てられた。
仏間が設けられ北面東側には義政自筆の扁額「同仁斎」があったことから、この部屋は当時から同仁斎と呼ばれたようである。また付書院と違い棚あり、これが茶室四畳半の原型ともいわれている。
後に見えるのが銀閣寺と向月台そして銀沙灘
銀沙灘
銀沙灘
銀沙灘 とにかく広大です
庭園
千代の槙 樹齢五百年と記されていた。
お茶の木 義政公お手植え
特別史跡 庭園
義政が義満に対抗して造った東山山荘の庭園である。庭木、庭石は京都、奈良の寺院や邸宅から取り寄せたといわれる。
月待山に抱かれた庭園はやはり西芳寺庭園を模している。上下二段に分かれ、上段は枯山水、下段は東求堂から銀閣にかけて広がる銀鏡池を中心とした枯山水庭園。
これら庭園の作庭には義政自ら指導したようであるが、実際は善阿弥(1339-不明)一族が携わったようである。
のち元和元年(1615年)観音殿と東求堂の建物のみ焼失を免れ、東山山荘を再建するにあたり庭も改装されたのである。現在ある方丈や砂盛りした銀沙灘のある場所は、元会所があった場所で銀沙灘は方丈の前庭として造られた。
銀沙灘・向月台
銀沙灘は、白砂を壇上に盛り上げたものでその表面に直線状の砂紋を付けている。本堂前から池辺まで広がっている。
向月台は、銀沙灘の西南方向に白砂を円錐状に盛り頭部を水平にならしてある。
富士山型
ともいえる。しかし富士山のようなそりはない。これらはどちらも義政の時代には存在しておらず、いずれも江戸時代後半と思われる。
ここで面白いことにかっては向月台の上にも年輪のような砂紋があったといわれるが、今はありません。
帰路につきます
寺垣
銀閣寺の山門から玄関に至るまでの参道の左右に設けられています
最初の写真より明確ですね。しかし帰路ですからあえて残しました。