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越前 特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 佐々木小次郎 燕返し

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡
住所:福井市城戸ノ内町
☎:朝倉氏遺跡保存協会 0776-41-2330


駐車場:周辺多数あります
北陸自動車道福井ICから車で10分
交通機関
R福井駅から一乗谷朝倉特急バス、「復原町並」下車すぐ。
福井駅からJR越美北線で、一乗谷駅下車、徒歩15分。/
料金:200円
日本名城100選
一乗谷は、戦国大名朝倉氏の城下町の跡があり、遺跡の発掘調査は、1967年から進められ、1971年には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定されました。


朝倉氏は現在の兵庫県養父(やぶ)市出身の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主人の斯波高経(しばたかつね)に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐(かい)氏を追放して越前国(えちぜんのくに)を平定しました。5代103年間にわたって越前国を中心として繁栄、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。足利義昭がいましたが明智光秀により京の都へそして将軍となるが、信長の逆鱗に触れ河内に追放された。


朝倉館跡・唐門(あさくらやかたあと・からもん)
ここがメインでしょう
全国で唯一発掘整備された戦国大名の館跡である朝倉氏5代目の朝倉義景の館跡です。この館は朝倉義景が政治など諸事を行っていたところで、この朝倉館の敷地面積は約6400㎡ありました。
土塁の内側の平坦地には、10数棟の建物が整然と立ち並んでいました。
当主一族の住居が集まって建てられていました。館の正面・西門には、一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルである唐門があります。この唐門は、朝倉義景の菩提を弔うためにこの跡地に作られた松雲院の寺門で、江戸時代中期の建造物となります。


下城戸跡 (しもきど)
下城戸は、敵が一番侵入しやすい、一乗谷の北端の谷幅が最も狭いところにありました。
現在は高さ4m、長さ38mの土塁が残っています。
土塁の西側に巨石を組み合わせた通路跡があって、ここが城下町の入口になっていました。この通路跡は、外側から町の中を見ることができないように防御のため、矩折(かねおれ)状につくられています。城戸の内側には、広場のような空間になっており、その広場の南側に町屋地区が形成されていたこと日常生活の場となっており、台所や湯殿(ゆどの)などがみられます。館は、三方を幅8m、深さ4mの堀と土塁で厳重に守られていて、背後の山には、守りの要である山城の跡があります。また、背後の高台には、北から順に、南陽寺跡(なんようじあと)、湯殿跡(ゆどのあと)、中の御殿跡(なかのごてんあと)、諏訪館跡(すわやかたあと)がある。

上城戸跡 (かみきど)
上城戸跡は、上流側(城下町の南端)に位置し、やはり谷幅が狭いところに築かれていて、下城戸跡からの距離は約1.7kmも離れています。
長さ100m、高さ5mの土塁になっており、外側には堀がありました。


上城戸跡の外側には、下城戸の外側同様に、町屋が一帯にあり、美濃から逃れてきた斎藤龍興や、近江・浅井氏などの屋敷もあったようです。
一乗谷の大手道(おおてみち)、旧朝倉街道を西に進んだ、東大味(ひがしおおみ)地区には、当時、朝倉家に仕えていた明智光秀館とされる館跡があり細川ガラシャ(光秀の子供)がここで誕生したといわれています。

復元された町並み



戦国時代朝倉氏5代103年にわたり越前の国を支配し、栄華を極めた城下町跡として、発掘された場所に、町並みが復元されています。


一乗城山  写真はありません
一乗城山(いちじょうしろやま)は、一乗谷の東にある山頂で、本丸跡、一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡が残ると言います。
ただし、1573年、織田信長の越前侵攻の際にも籠城することはありませんでした。


一乗滝と佐々木小次郎
写真はありません銅像もあるらしいです。 ここ二度訪れていますが滝までちょっと遠いのです。
こ南側の山腹には、佐々木小次郎が秘剣「燕返し」の修行をしたと伝わる一乗滝があります。小説では登場するのですが・・・・・。ここだったとは!!
一乗谷の戦い
元亀4年(1573年)4月、武田信玄が駒場で亡くなると、8月になって織田信長は3万の大軍で浅井長政の小谷城を包囲、この時応援要請を受けた朝倉義景は家中の反対を押し切り2万の兵を引きつれ余呉(滋賀県)に本陣を置いた。
しかし、魚住景固らの重臣は、兵の疲弊を理由に出兵を拒否、朝倉義景は小谷城がある北の小谷山の山頂に大嶽砦(大嶽城)を築きました。
近江一帯が暴風雨となった時に、織田信長は自ら千人余り兵を率いて、浅井家から寝返った浅見道西の案内で、大嶽砦を急襲しましたのです。丁野山砦が陥落、朝倉義景は越前への退却をした。
佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀が布陣したが信長に追いつかずここでの参戦は後れを取りました。
朝倉義景は退却戦の混乱に織田軍の猛追を受け朝倉勢は刀根坂に向かい、ここで織田信長本隊の攻撃を受けます。有力な武将は討ち死に、朝倉景行・息子の朝倉道景(17歳)も討ち死にした。また岐阜から逃れていた斎藤竜興も討ち死に。
結局、朝倉義景はわずかな手勢のみで一乗谷に逃げることになった。
朝倉家の重臣で織田家に寝返っていた前波吉継を案内役にして、織田信長は越前に入り、龍門寺城に朝倉攻めの本陣とした。 
軍勢の立て直しも不可能で、兵力もわずか500名となった朝倉義景は朝倉景鏡 勧めで、一乗谷から大野郡に移り平泉寺を頼り再起を図ることとする。   
その間、織田勢は一乗谷に入ると8月18日から20日まで3日3晩にわたり城下町を放火一乗城山を破壊しました。
六坊賢松寺にいた朝倉義景は、8月20日、裏切った朝倉景鏡の兵に囲まれ、自刃します。享年41歳。


この後信長は浅井長政を攻めるのですが、朝倉氏が滅亡したことを告げ降伏を進めるも「武士の恩義」があるとし、妻お市と娘三人は城からだし切腹、また、長男と次男は密かに城を脱出したが、長男はお市が助命を元に滞在場所を言い、長男は秀吉の手により関ケ原で処刑(田楽刺しというむごたらしい)した。次男は琵琶湖北端のお寺にかくまわれ出家(秀吉は知っていたと思いますが、出家したので黙っていた)
当時、武家の男はことごとく処刑するのが決まりでした。仇討ちがあるからですね。


朝倉義景の母・高徳院(広徳院)と、子の朝倉愛王丸は朝倉景鏡に生捕りにされ、羽柴秀吉に差し出しています。
高徳院と愛王丸の身柄は越前府中に護送されて丹羽長秀に預けられると、8月26日、今庄の帰(かえる)の里にて、堂もろとも火をかけられて殺害され、朝倉家は滅亡しました。
最初に織田勢に寝返った前波長俊は、越前の守護代に任じられて龍門寺城を居城としたため、一乗谷の再建はかないませんでした。
また、戦後処理として滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀の3人が、北の庄城(のちの柴田勝家の居城)に2~3ヶ月滞在しました。
柴田勝家が北の庄城に入ると、一乗谷の商人や西山光照寺、心月寺、安養寺などは、北の庄の城下に引っ越したため、一乗町、一乗魚屋町などの町が形成された。
なお1575年8月に、織田信長が一向一揆を平定した際に、一乗谷に在陣したとの記録がありますが、以後、一乗谷は使われることはありませんでした。


越前・大野に朝倉義景の墓所があります。

朝倉館跡 
 第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500㎡程の敷地があり三方は土塁(どるい)と濠(ほり)で囲まれています。常御殿(つねごてん)、主殿(しゅでん)、会所(かいしょ)、茶室(ちゃしつ)、日本最古の花壇のほか、台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配置されていました。東側の山際にある館跡庭園は力強い滝の石組、護岸石組が現存されています。


1991年には諏訪館跡庭園(すわやかたあとていえん)、湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)、館跡庭園(やかたあとていえん)、南陽寺跡庭園(なんようじあとていえん)の四庭園が特別名勝に指定されました

諏訪館跡庭園
 諏訪館は朝倉義景の妻「小少将(こしょうしょう)」の館で、その庭園は遺跡の中でも最も規模の大きいものです。中心の4m余りの巨石は、滝の石組の一部となっています。この石には江戸時代末に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名(ほうみょう)が残されています。
また、木にはモリアオガエルの卵がぶら下がっているのです。

湯殿跡庭園
 義景館跡を見下ろす高台にあり、先ず荒々しい石組に驚かされます。どの石も強い表情を持ち迫力があります。鶴や亀を思わせる島があり、水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉(ちせん)庭園になっています。一乗谷で最も古い庭園とされています

南陽寺跡庭園
 南陽寺は、3代貞景が娘のために再興した尼寺(あまでら)で、館の東北の景勝地にあり、庭には石組と池泉跡が残っています。三段の滝が組まれ、力強い石組になっています。ここは後に将軍になる足利義昭を招いて桜を見る宴会を催したところで、庭前には美しい糸桜があったと伝えられています。

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