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津和野観光 ① 太鼓谷稲成神社 津和野カトリック教会 森鴎外旧宅

津和野観光 ②
住所:島根県
蒸気機関車の終着駅「津和野」
城下町としての歴史と文化が今も息づく山陰の小京都


太鼓谷稲成神社  島根県は出雲大社だけではないのですね
太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。
以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されておりましたが、廃藩後は広く一般庶民も参拝できるようになりました。
大正13年には、北白川宮富子大妃殿下が御参拝なされ、宝物の寄進があり、宝物殿を設置し、次いで養老文庫を設けました。
山の緑と朱の鳥居がとても映えるところ
日本の5大稲荷に一つ


源氏巻   愛知県知立の大あんまきに似ていました。


ここは京都伏見稲荷と同じように千本鳥居があります。300mにも及ぶ石段[263段]、息が切れる、途中でで一服。
お参りする時には「お揚げ」と「ロウソク」をお供えするのが作法。これ岐阜県おちょぼ稲荷でもあったな。とふと思います。
後から車でも登れることがわかりました。



殿町通り
町の中心部にある殿町通りは、城下町時代の古いたたずまいを残しています。ここは女性に人気です。
藩校養老館跡、郡庁跡、津和野藩家老多胡家表門、カトリック教会などたくさんの歴史を感じさせる建物があるので津和野観光の中心地です。
通りに沿って流れる掘割には、白壁や並木の緑が映り込み、300匹以上の錦鯉が泳いでいます。近くには鯉の餌も販売していて餌をあげることもできます。癒しのひとときです。


津和野カトリック教会
島根県鹿足郡津和野町後田
TEL: 0856-72-0251
木造平屋建、鉄板葺、建築面積131㎡
礼拝堂の中には畳敷きです。(これ珍しいです)長崎にもありました。
この教会は,長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られる津和野にビリオン神父によって創設されたもので,現在の建物は昭和4年の再建である。木造平屋建の単塔式のゴシック様式になり,簡潔な図柄のスデンドグラスのある教会として親しまれている。


拷問様子
乙女峠マリア聖堂
ここには悲しい歴史
長崎、浦上でとらえられたキリスト教徒153名が、津和野に移送されました。
津和野にたどり着いた信徒たちは
改宗のため「氷責め」「食責め」といったあらゆる拷問を受けます。
その結果、37人が殉教(自分の信ずる宗教のために命を捨てること)しました。
ここは日本で唯一聖母マリア降臨した場所と言われています。
恋愛成就のパワースポットとか女性の方ここに行きましょうね。
ここのステンドグラスには殉教者の拷問の様子が描かれているようです。

多胡家老門跡
亀井氏11代のころ行政の中心は家老であった多胡氏でした。
特に真武は鬼主水と呼ばれていた。殖産興業に力を入れ産業の基礎をきずいた
真陰は仮名手本忠臣蔵の加古川本蔵のモデルともいわれた。また、渡辺崋山とも親交がありました。




津和野城
リフトに乗って登る。徒歩だと約1.3キロの登山



中国地方の覇者だった大内氏は、大寧寺の変(1551年)によって重臣の陶隆房に実権を奪われてしまう。
津和野城主である吉見正頼は大内氏前当主・義隆と義兄弟だったため陶隆房に反抗した。
1554年に起きた三本松城の戦いで陶隆房が率いる大内軍に包囲されているが、毛利元就が大内氏から離反したことなどもあり、吉見正頼はこれをよく凌いだ。
最後は吉見氏が大内氏に人質を送ることで和睦が成立する。
1555年に起きた厳島の戦いで毛利元就に大敗し陶隆房は自害。
こうして大内氏の勢力は一気に弱化し毛利元就によって滅ぼされている。
吉見正頼は毛利氏に従い活躍したため多くの領地を与えられた。
次に1600年の関ヶ原の戦い。
吉見氏は主君の毛利輝元が西軍の総大将だったため西軍に従軍したが、西軍は東軍率いる徳川家康に敗北した。
毛利氏は領地を減らされ、吉見氏は津和野から立ち退くしかなかった。
その後、宇喜多氏の親族である坂崎直盛が津和野に入城。
直盛は津和野城に壮大な石垣を設け、三層天守を構える近世山城に改築した。
宇喜多氏といえば宇喜多秀家が有名ですが、西軍の中心的な武将であったので切腹は免れたが、八丈島に流されている。
坂崎直盛は秀家と仲が悪かったようで、関ヶ原の戦いでは東軍徳川家康を味方し後日領地を与えられている。
しかし、坂崎直盛は1615年の大坂夏の陣で救出された千姫を巡る諍いによって自害に追い込まれてしまう。家臣に殺害されたという説もある。
坂崎氏が断絶した後、因幡国鹿野藩より亀井政矩が津和野城に入城する。
1617年から明治維新までの225年間、11代に亘って亀井氏が津和野を統治した。


ここで逸話
千姫は徳川秀忠とお江の間に生まれた娘で豊臣秀頼に嫁いでいた。ここは皆さんご存知。
『大阪城から千姫を救出した者を再婚相手にする。』という下知があった。
それを聞いた直盛が千姫を救うが、約束を反故にされてしまう。
約束を反故にされた直盛は千姫を奪う計画を立てるが、計画が幕府に露見し屋敷を囲まれ自害に追い込まれる。よほど千姫美しかったのですね。家康もかわいがっていたようですから。家康の怒りに触れたらだめだよ。その他諸説があるようですが。



森鴎外旧宅
森鴎外は、江戸末期に津和野で生まれ、幼少期を旧宅で過ごしました。旧宅には勉強部屋や調剤部屋も存在します。この事から、森鴎外は医学博士になるため必死に勉強していたことが伺えます。鴎外の旧宅は老朽化により改修され、現在は国の史跡となっています。

森鴎外記念館  管内撮影禁止
旧宅には記念館が隣接しています。展示室が2つに分かれており、第一展示室では遺品や直筆原稿など、第二展示室では津和野で過ごした幼少期をフルスクリーン映像で紹介しています。
続きは ②ををご覧ください

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