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兵庫県 世界遺産  姫路城

姫路城  世界遺産
別名
白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)
ここには娘と妻三人で行きました。
姫路城は駅を出ると、どーんと目の前に見える。
JR姫路駅から徒歩で20分ほどのところに位置する姫路城。姫山と呼ばれる山(高台)の上に立っているので、市内のさまざまなところから見ることができる。
建築技術の粋を極めた傑作として、平成5(1993)年に日本で初の世界文化遺産に指定された。


現在の姫路城は、徳川家康の次女督姫(とくひめ)を妻とする池田輝政により、慶長14(1609)年に関ヶ原の戦いの翌年にあたる慶長6年(1601年)から8年の歳月が費やされました。太平洋戦争で姫路が空襲被害(焼夷弾)にあった際には、奇跡的に焼失を免れた。建築当時のままの姿を残しています。それまで羽柴秀吉がその20年前に建てた三層の姫路城が建っていましたがこの城を取り壊し、5層7階の天守となりました。


元の姫路城は、貞和2(1346)年、南北朝時代の武将である赤松貞範が姫山と呼ばれていたこの姫路の地に築いたものとされています。
羽柴秀吉など、さまざまな武将や大名によって治められ、建て替えや拡張が行われてきた。
いまの大河ドラマ明智光秀の時代,秀吉はここを居城としていた。光秀謀反で急遽京都へ向かうとき城内の金銀などすべて持ち出し、二度とこの城には戻らない覚悟で京に向かった。(妻(ねね)はここに残りました)
実は、黒田官兵衛はこの姫路城で生まれたとされているほか、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上したのです。
現在の形を築いた池田氏の後も、城主を変えながら明治時代になるまでお城として活躍。赤松氏のころから数えると実に670年以上の歴史ある城である。


「官兵衛ゆかりの石垣」
城を囲う東面の石垣は、秀吉が居城している時代、秀吉の命により官兵衛が築いたものだと言われています。


徳川家康の孫娘であり、戦国一の美女といわれるお市の方の孫として知られる千姫が暮らした城としても有名な姫路城の歴史を感じます。


さて城内に入ると
入城口を抜けて、なだらかな坂を登っていくと「菱(ひし)の門」。
安土桃山時代の様式を残す櫓門(やぐらもん)と呼ばれる型式の門で、城内で最も大きな門です。

城内にはこの菱の門のほか、「いの門」「ろの門」など、いろは順を使って名づけられているたくさんの門が設けられています。


このお城多くのドラマに登場中でも私は、松平健主演「暴れん坊将軍」が好きですね。
「はの門」と「にの門」の間の経路ここが撮影場所
よって、別名「将軍坂」と呼ばれています。
NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』では姫路城に幽閉された武蔵(市川新之助=現・市川海老蔵)が逃げ出すシーンの撮影に使われています
またここは007『007は二度死ぬ』(ショーン・コネリー)、タイガー田中(丹波哲郎)でも使われたのです。
しかし、現在は文化財保護からロケには使われないそうです。

「いの門」は姫路城内の三国堀北側の西に位置しています。
菱の門同様に「筋鉄饅頭金物」や「八双金物」などによる、
様々な装飾が施され「ろの門」などと同様に
慶長期の古い様式で建てられた、脇戸付きの高麗門です

「ろの門」
菱の門同様に「筋鉄饅頭金物」や「八双金物」などによる、
様々な装飾が施され「いの門」などと同様に
慶長期の古い様式で建てられた、脇戸付きの高麗門となっています。

「はの門」
はの門は、いの門やろの門とは違って防御力がすごい構造の門となります。門の前に来ると、門の上に建物があります。これは城門の種類のうち「櫓門」と呼ばれるスタイルです。門と櫓が合体しここから侵入者狙い撃ち。
この門は、日本の数ある城門の中でもかなり古い構造です。秀吉時代に建設されたものを輝政がそのまま使っているのではないか、と言われています
この階上の櫓は、両側の石垣の上に乗っているように見えますが実はそうではなく、両側の柱によって支えられ、自立しています。これは、敵に攻め込まれる前に、扉を閉めて両側の石を崩し、石で門内のスペースを埋めてしまうためです。そのために門内はすぐ登り階段になっていて、扉の内側に石で埋めることのできる空間を確保できるような仕掛け。
ここで一つ紹介
はの門を入ったところに広がる空間は「乾曲輪」と呼ばれています。天守から見て乾(西北)の方角にある曲輪だからです。菱の門から始まった二の丸の一番奥まった部分がこの乾曲輪で

この建物は次の「にの門」の上階の櫓なんですが、その1階の屋根は優美にカーブしていますね。これを「唐破風(からはふ)」といいますが、その唐破風の中央の鬼瓦に十字のマークが見えます。これが有名な「十字紋の鬼瓦」


「にの門」上層部に残る十字紋瓦
城内中央あたりにある「にの門」。こちらの瓦をよく見ると十字型の紋が刻まれています。
これは「十字紋瓦」と呼ばれており、キリシタンだった黒田官兵衛にゆかりがあるのではともいわれていますが、実際は関係ないとか諸説あります。
実は、私は官兵衛と関係ないだろうと思います。なぜかと言いますと、官兵衛が中国攻めの拠点として姫路城を秀吉に献上したのが天正4年(1576年)、高山右近らの勧めによってキリスト教に入信したのはそれから9年もあとの天正13年(1585年)ごろで、そのころ官兵衛は姫路城とは関係なく、同じ播州の山崎城の城主ですから、この鬼瓦が官兵衛にとゆかりものでないことは明白です。
十字紋というのは別にキリスト教ではなく、お寺の屋根瓦などに使われている例もあります。巴紋などと同じく汎用的な紋の一つではないか。でも前述の方がロマンがありますね。


「にの門」内側

暴れん坊将軍が下りてくる場所

「への門」


「との門」


「りの門」
りの門」・「ぬの門」
姫路城の上山里丸の大手側の出入口にあたるのが「ぬの門」。反対側(搦手側)には「りの門」が構えていますが、「ぬの門」は、姫路城随一の堅固な防御を誇る門です。、

「ぬの門」

「るの門」

ちょうど工事中

天守への入り口 歩いているのは娘

備前門の横には大きな四角い石がありますがこれ、石棺です

また石垣にも石棺は転用されています。(説明文があります)

「姥ヶ石(うばがいし)」
石垣は、時代によって積み上げ方が違ったり、灯篭や石棺(石の棺)など、さまざまなものを転用して石を集めていたのが分かっています。これらは他の城郭でも用いられています。墓石が多くも散られていますね。
なかでも、石垣の石集めに苦労していた秀吉に、町の餅売りのおばあさんが自分の使っていた石臼を献上したとの言い伝えが残っている「姥ヶ石(うばがいし)」があります。


右側の網をかけて保存されているのが「姥ヶ石」
しかし、この石臼は秀吉時代の姫路城の石垣ではなく、その後に新たに立て直された池田輝政時代の石垣の上にあるものなので、どうもこのお話自体は作り話ではないかとおもわれます。それほど秀吉は慕われていたのと、人たらしなんですね。



播州皿屋敷お菊井戸
姫路城の上山里(かみのやまさと)とよばれる広場に、お菊井戸と呼ばれる古い井戸があります。
この井戸は、播州皿屋敷で知られるお菊さんゆかりの井戸でよく知られた怪談話が残されています。
約450年前の室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていました。
それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出しました。
この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができ、その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、鉄山の同士の町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいます。
以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄りました。しかし、お菊はその条件を聞き入れず、弾四朗に折檻されます。
それでも強情に言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込みました。
それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」
と皿を数える声が聞こえるようになりました。
そのお菊が投げ込まれた井戸がこのお菊井戸だと言われています。

西の丸(西の丸には廊下で繋がっています)
城の西側に位置し、千姫ゆかりの化粧櫓があるほか、城内で仕えていた侍女たちがいた場所です

天守内部
天守内部にある内室(隠し部屋)があります。
ちょっと見倉庫のようです。

姫路城大天守の最上階にある刑部神社


天守閣
姫路城の大天守は、標高45.6mの高台に、石垣が14.85m、建物が31.5mで合計海抜およそ92mという高さでそびえ立っている。
信長は安土城は『天主』と呼んだ。


姫路城は、内堀より内の内郭を中心に時計と逆回りに渦巻き状に惣構えの曲輪・堀が配置されている。 渦巻き状の縄張りの城は、姫路城と江戸城こちらは時計回りです。この2城だけです。


さて城内です
ここは靴は脱いでビニール袋に入れて見学します。
ガイドの方案内は2000円必要


姫路城の大天守は5層7階建て。外から見ると5重に屋根が積み重なっているのですが、中は地下1階、地上6階という造りになっています。


お城といえば「鯱」
お城の守り神とされる鯱本来、雄と雌の対になっているそうなのですが、姫路城の鯱はなぜかふたつとも雌だそうです


その理由は
元は次いであったのが対であったが昭和時代の復元大修理の際、雌の鯱しか残っておらず、それをもとに復元されたため、両方とも同じ雌の鯱になってしまったのだとか。
残念ですね。


宮本武蔵の姫路城天守の妖怪退治
剣豪武蔵はここ播磨の宮本村の生まれ
1617年、本多忠政(ほんだ ただまさ)が、池田氏の後に、桑名から姫路に国替えとなり、入封しました。
本多家の剣道指南役に、三宅軍兵衛(軍太夫)という人がいます。軍兵衛の屋敷は、江戸初期の姫路城下絵図に書かれていて、軍兵衛は実在の人物です。
その軍兵衛が、姫路城下で武蔵と対決をして、手も足も出ず、死ぬ思いをしたということが資料として残っています。
数々の決闘を制したのち、武蔵は姫路に来たと考えられています。


「甲子夜話(かっしやわ)」「諸国百物語」など江戸期の書物に、「姫路城の城ばけ物」などと称して数多くの姫路城の妖怪が登場しています。
初めは「名もない化物」だったのですが、姫路城天守の建つ小高い山である「姫山」の地主神・刑部(おさかべ)神社にちなんで「長壁(おさかべ)」とも言われています。
姫路城天守の最上階に住むとされるこの妖怪を、武蔵が退治するという物語があります。
秀吉の義理の兄(弟とする説もある)・木下家定が姫路城主であった頃の話です。
宮本武蔵は、そっと名前を隠して足軽奉公をしていました。
そのころ、姫路城天守に、妖怪が現れるという噂が広まっていました。
城の見張り番の役目をする者たちは、皆この噂を怖がっていて、見張り番をまともにすることができない状態が続いていました。
天守自体は人が居住するところではないので、人がいない夜の天守内部はなにもない暗い空間が広がっているだけです。
武蔵がある真っ暗な夜、灯ひとつを持って、不気味な悪い大きな暗闇の広がる天守に登ります。3階の階段にさしかかると、地響きと轟音とともに、突然すざましい炎が吹き降りてきました。
武蔵が腰の刀に手をかけ、妖怪が現れるかと身構えると、その異変はピタリと止み、天守内はまた元の静けさに戻りました。
4階でも同じことがありました。
武蔵は構わずさらに天守を登ります。
そして、最上階で座りこみ、妖怪が現れるのを待ちます。
やがて、そのうちにうつらうつらし始めた頃、どこからともなく武蔵を呼ぶ声が聞こえてくるのでした。
はっとして、目を開けると、美しい姫が現れ、武蔵に語りかけました。
「私は姫路城の守護神、刑部(おさかべ)明神です。あなたが今夜来てくれたおかげで、姫路城に住む妖怪は恐れて逃げていきました。褒美にこの宝剣を与えましょう。」
と言って姿を消しました。
白木の箱に入った郷義弘(ごうのよしひろ)の名刀が、武蔵の前に残されていたということです。
この話は、木下家定が姫路城主のころということですので、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の三層の天守の姫路城の話かなと思います。
ちなみに、現在の姫路城を築城したのはこの次に城主となる池田輝政です。


近松門左衛門・井原西鶴と「お夏・清十郎」
その頃井原西鶴の小説「好色五人女」の中の「姿姫路清十郎物語」や近松門左衛門の戯曲「五十年忌歌念仏」で使われた「お夏と清十郎」の物語が姫路には伝えられています。
1625年、姫路の米問屋「但馬屋」に奉公していた室津の造り酒屋の息子清十郎が、米問屋の主人に刀を振り重傷を負わせる事件が起きました。身分の違う者同士が結ばれない時代に米問屋の娘お夏と恋仲になったことが原因でした。
この騒動を知った当時の姫路城城主榊原忠次は、同じような事件が二度と起きないようにと清十郎を打ち首の刑に処しました。
しかし、その処分をきっかけに清十郎を忘れきれないお夏は「清十郎さま殺さば、お夏も殺せ」と半狂乱で叫び、髪を振り乱して裸足で城下を歩き回るようになりました。
という悲しい物語です。
現在、姫路城の北の「野里の慶雲寺」には、この世で結ばれなかった二人があの世で結ばれるようにと二つの小さなお墓が建てられています。
毎年、8月9、10日には二人を供養する「お夏清十郎供養まつり」が行われています。


ここ見学はかなりに時間が必要[2時間弱]
写真は切りがないので省略
こまごま見ると多くのものがあります。
階段は比較的穏やかと思っていると、だんだん急勾配、手すりにつかまらないと上がれない。
しかし、下り階段はもっと急勾配で、足が滑ったら真っ逆さま。

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