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熊本城  銀杏城

熊本城
またの名を銀杏城
天守閣前広場には、熊本城の別名「銀杏城」の由来となった大イチョウがあります。加藤神社境内のイチョウとあわせて、加藤清正のお手植えと伝わっています。しかし、明治10(1877)年の西南戦争直前に天守・本丸御殿が焼失した際に、このイチョウも焼けてしまいました。現在のイチョウは、燃えたあとから生えてきた新しい芽が成長したものです

天守再建
熊本城の旧城域は約98万平方メートル、周囲約5.3キロメートルの広大な敷地に、大小の天守を始め、櫓(やぐら)49、櫓門(やぐらもん)18、城門29を備えていました。西南戦争直前の火災によって天守を含め、多くの建物を焼失しましたが、宇土櫓(うとやぐら)や東竹之丸(ひがしたけのまる)の櫓群など、築城当時の建物も残っており、13棟が国の重要文化財に指定されています。昭和35(1960)年に市民からの寄附金も受けながら鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守は、明治時代初期に撮られた写真などをもとに、瓦の枚数まで忠実に外観復元されました。
大天守は地上6階地下一階で高さ30mもある・小天守は地上4顔地下一階高さ19m
現現在は地震に備えた最新技術と伝統技法を融合させ、震災復興のシンボルとしての復旧作業を進めています



南大手門
これは平成一四年に復元された櫓門です。
北、南、西にあった中でも最大級の規模です。


首掛け石

記念撮影 天守が大きく人物は小さい

源之進櫓

五間櫓、

七間櫓、

四間櫓

源之進櫓 四間櫓 14間櫓

宇土櫓、
本丸の西北隅、20メートルの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19メートルの櫓。天守閣並みの構造と大きさを誇ります。熊本城には大小の天守閣とは別に、同規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在します。築城以来現存する貴重な櫓としても知られています。国指定の重要文化財だが、現在は内部を一般公開しているので、熊本城の歴史を体感できるおすすめのスポットです。


創建当時からある唯一の多層櫓です。
地上5階建て地下一階でこれは他の城郭では天守に匹敵する大きさ。
名前の由来は、宇土地域を治めていた小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で戦死した後、行長の家臣の一部を清正が召し抱え、櫓をこの一団に管理させたことからともいわれています。かつては宇土城天守閣を移築したとの説もありましたが、平成元年(1989)の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定的な意見が主流となっているようです。


宇土櫓の屋根には鯱(しゃち)がのっており、大小天守閣と並んで“三の天守”と呼ばれることもあります。この鯱は、もともとあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理した際、城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。青銅製で高96センチ、重さ約60キロ。ちなみに、鯱は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対となっています。

不開門(あかずもん)城の鬼門に関となる


慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じて、名城熊本城を完成させます。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。加藤清正から細川忠利、宮本武蔵、谷干城など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史
大天守と小天守が並び建つ、熊本城。現在の天守閣は昭和35(1960)に外観復元されたもので、石垣の上にどっしりと構える様子が見事です。大天守は外観3重、内部は地上6階地下1階建て。最上階からは、熊本市内や遠く阿蘇の山並みを見渡すことができるそうですが、私達は本丸御殿散策で時間を取られ、ツアーの出発時間までには間に合わない。
また、コンクリート造りであるためあまり興味がなかったこともある。


面積はなんと98万平方メートル 周囲は5.3㎞にも及ぶ
櫓の数は大小天守閣、櫓49、櫓門18、城門29.


国指定の文化財 一三棟が現存。


田子櫓
東十八間櫓、
北東十八間櫓、
平櫓、
監物櫓、
長塀、
異常は写真がありません



加藤清正
熊本城を築城した加藤清正(かとうきよまさ・1562年-1611年)が肥後に入ったのは、27歳の時でした。尾張(現在の愛知県西部)出身で、豊臣秀吉(1537年-1598年)とは、双方の母親がいとこ同士だったという説があります。
肥後に入った後の清正は、長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水(ちさんちすい)工事や、水田の開発などに力を入れます。その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがあります。また、南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行うことで、肥後は豊かになりました。そのため、加藤清正はやがて領民から神様のように慕われ今でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれています。



宮本武蔵
海外でも知られる「五輪書(Book of five rings)」の著者であり、江戸時代の有名な剣豪宮本武蔵は、寛永17(1640)年57歳のとき、藩主細川忠利に招かれ、現在の千葉城(ちばじょう)町付近で晩年を過ごしたと言われています。武蔵がここ熊本で創始した二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)は現在も二刀流の剣術として継承されています。また茶、禅、書画にも通じた文人として日々を送り、その作品は島田美術館や永青文庫などに所蔵されています。正保2(1645)年62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり細川藩主の江戸参勤交代を臨む豊後街道の林の中に甲冑姿で葬られたといわれています。



忍者も登れない石垣
熊本城の石垣は、通称で武者返し(むしゃがえし)と呼ばれています。石垣は熊本城の特徴のひとつです。下はゆるやかで、簡単に登れるように見えますが、上に向えば向かうほど反り返りが激しくなり、登ることができません。武士はもちろん、身軽な忍者でさえも、登れないことから武者返しと呼ばれています。


二様の石垣
加藤清正公時代の石垣と細川公時代の石垣を一度に見ることができる場所です様
加藤清正公時代のゆるやかな石垣角(手前右)と、細川時代の急勾配の石垣角(中)を一度に見ることができます。



熊本城の石垣は天下一流と名を馳せた、独特の弧を描く扇の勾配です。清正流石組と呼ばれ、加藤清正公が近江国から率いてきた「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が持つ、特殊技術を駆使して作られたといわれています。
下は30度ほどと緩やかですが、上に向かうに従って角度を高め、天端(てんぱ)では、75度の絶壁になっています。いわゆる武者返しと呼ばれる石垣で、この勾配のおかげで敵の侵入を防いでいたといわれています。



穴太衆の後藤家伝来「石垣秘伝之書」には、高さ十間から二十五間までの石垣の高さごとに反りの角度を数種類に分けていたことが印されています
石材の加工
石垣の石は、自然石のままではなく、同じ位の大きさに割り、接合面を粗く加工した「打込接」(うちこみはぎ)と呼ばれる積み方が熊本城の石垣の特色です。


幾重にも重なる石垣
竹の丸から飯田丸に向かう通路は6回も折れ曲がります。さらにこの通路は、江戸時代には西竹の丸五階櫓を中心に北と南に札櫓門、元札櫓門という二つの櫓門も置かれ厳重な備えでした。高石垣に囲まれて幾重にも折れ重なった石垣は、熊本城を代表する防備の工夫です。
熊本城がきずかれた時代は築城ラッシュであった。二様の石垣が珍しい
穏やかな傾斜の石垣と、それに継ぎ足された急こう配の石垣がある。


五階層本丸の南西にある。
高さ14m、延べ床面積は500平方メートル。築城当時は6棟ありました。


本丸御殿
絢爛豪華な昭君之間(しょうくんのま)は必見
中でも、一番の見どころは「昭君之間」。藩主の会見の場であり、本丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。江戸時代初期の特色である鉤上段(かぎじょうだん)を設け、室内は床の間や違棚などを持つ書院造りになっています。

大広間

壁や襖には、中国・前漢時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁いだ悲劇の美女、王昭君の物語をモチーフに描かれた見事な障壁画があります。また、天井を見上げると、金箔を施された60枚の天井画が、格子状に配置されています。これぞ大名文化の粋の結集といった感じです。
本丸御殿大広間の奥にある「昭君之間(しょうくんのま)」
ここはきらびやか、お殿様がいたところ
ここで20分ほど見とれていました。
本丸御殿完成から間もない頃に行きました。

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