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京都  寂光院  建礼門院御廟 大原散策

寂光院  じゃっこういん
住所:京都市左京区大原草生町676
山号:清香山 玉泉寺
宗派:天台宗
創建:推古2(594年)
開基:聖徳太子
本尊:六万体地蔵菩薩
電話:075-744-3341
駐車場:民間駐車場
公共交通機関
京都駅からは17番・18番のバスに乗車。
四条河原町からは16番・17番のバス。
京阪三条からも16番・17番のバス。
いずれも降りるバス停は大原です。バス停を降りたら10分も歩けば寂光院につきます。
道幅が狭いですが大丈夫、三千院も近いです。また、血天井で有名な宝泉院もあります。
ここで有名なのが、このお寺の鐘です。「祗園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」

この土産物屋の右手 菊の御紋の透かし彫りの木戸だ入り口です。

寂光院は尼寺で、用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられています。
当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが今は現存しないようです。

鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災(放火)により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されています。

初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)[敏達13(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で慧善比丘尼という方]で、その後、代々高貴な家門の姫君が住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられています。史料がなく詳細が分からないため、阿波内侍(あわのないし、藤原信西の息女)を第2代と位置づけているようです。
第3代の建礼門院(平家滅亡後の平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母君)は、文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れた後、寂光院に侍女たちとともに閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごした。

本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが風情がいいです、落ち着いた雰囲気ですよ。


姫小松は、『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる  中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松でる。
文治2年(1186)の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面するところにも登場する。


第2代として大原女のモデルとしても知られる阿波内侍です。この人が、草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとなっています。
時代祭りの行列にも登場します。

パンフレットより
六万体地蔵菩薩 (パンフレット一番上の写真
本堂には、国宝修理所の故小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、落慶式と同時に、魂入れの儀式として入仏式が厳修された。鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色が復元されています。


寂光院の鐘楼は、平家物語の始まりの諸行無常から、この鐘は諸行無常の鐘楼とされています。これは後白河法皇が、寂光院にいる徳子に会いに来られた際、もう帰宅の時間だと言うことを告げる鐘の音が聞こえ、その時の様子が、平家物語にある「祗園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」と表現されているのは皆さんご存じですね。あまりにも有名です。
紅葉の時期に行くと、周りには色鮮やかで美しい紅葉が大変美しいところです。たまにTVにでも放送されます。

茶室の門

由緒ある茶室「孤雲:こうん」見所の一つです。
寂光院にある孤雲は、千宗室宗匠によって昭和6年(1931年)に茶会開きが行われた場所で、名前の由来は、平家物語の大原御幸のなかの一節からとられています。こちらの茶室は、昭和天皇が即位する時に使っていた御大典があるのですが、その下賜された御大典の木材を使って、この茶室は作られています。
由緒あるこの茶室もまた、周りの美しい景色に溶け込むような佇まいです。


(上記のパンレット参照)
建礼門院(けんれいもんいん)像
建礼門院像は、ヒノキ材の寄木造で、女性像には珍しく結跏趺坐の座り方で、浄土宗の墨染めの衣を着している。現在は天台宗であるが、中近世には天台・浄土兼修の尼僧寺院であったからである。新しい像の制作は、平安仏所江里康慧仏師に依頼し、扉に美しい大原に自生する草花を配した溜め塗の厨子も平安仏所の故佐代子夫人(人間国宝)の手によるものです。


(上記のパンレット参照)
阿波内侍(あわのないし)像
焼失前の阿波内侍像は、藁芯に書状類を貼り籠めたいわゆる張り子の像であったようです。焼失後の焼け残った書状類から室町時代後期ごろの年号のあるものが発見されており、制作は室町時代ごろであると推測されています。
新しい像は同じく平安仏所の制作されています。


建礼門院の御廟入り口  寂光院の入り口右手にあります普段は締まっているようですが今日は拝観できるようです。

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