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京都 三大祭り  時代祭

京都三大祭  時代祭     (葵祭・祇園祭)
平安神宮のお祭りです。
葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いのですが、各時代の中心であった京都市であるからできる祭と思います。これは京都市民が主体となる市民上げての祭りです。


他の県にも似た祭りはありますが、これほど豪華である祭りは他ではありません。


時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年紀念祭を奉祝する行事として、明治28年に始まりました。明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として平安神宮が創建され、そこに寄せられた人々の熱意の象徴として、まったく同じ意志のもとに創始されたのが時代祭です。

 
京都の誕生日10月22日に「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」「京都をおいて他にはまねのできないものを」というもので、京都人の心意気と誇りがふんだんに織り込まれています。
この祭りは、広く海外まで知られており、海外からの観光客も多いです。


平成19年より「室町幕府執政列」と「室町洛中風俗列」が室町時代列として新たに編成されました。
これらの衣装替えは京都市内の寺社仏閣で整えられ、平安神宮に集まります。


日程は10月22日
行かれる方は、京都御池地下駐車場を利用すると便利です。1500円
市役所前が私は良いかと思い市役所前で待ちました。


有料観覧席もありましたが、その後ろで見学。
この祭りの参加人員はおよそ2000人です。この他にも周りの援助する人を加えればこの倍はいると思います。


馬70頭 牛6頭も参加
京都御所出発し平安神宮までの道のりです。

2012.10.22   約2時間余りの行列見学

広報車

京都市の議長が乗車 このあと数台の馬車が来ます。

行列の説明書

最初は維新勤王隊列 ぴーひゃらどんどん 誰でも知っている音色です。


維新勤王隊列(明治維新時代)
維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に加勢しました。これはそのときの行装にならったものです


維新志士列(明治維新時代)
桂小五郎(木戸孝允)、西郷吉之助(隆盛)、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、吉村寅太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰、平野国臣など幕末の知識階級の武士で、明治維新は彼らの大きな働きによって基礎が築かれました。


このほか、幕府に対抗するため天皇を動かさんとした7人の公卿のいわゆる七卿落の列など、当時の公卿達も列に加わります。

1863年(文久2年)統幕計画に敗れ京都から追放となったときの姿、長州に落ち延びました。

徳川城使上洛列(江戸時代)
徳川幕府は大礼、年始の際には必ず将軍の名代として城使を上洛させ、皇室に対して礼を厚くしました。


城使には親藩あるいは譜代の諸候が選ばれ、盛大で豪華な行列でした。行列の先頭をゆく槍持、傘持、挟箱(はさみばこ)持の掛声、動作は当時の行列のありさまを偲ばせます。

吉野太夫です

江戸時代婦人列(江戸時代)
和宮(孝明天皇の皇妹)をはじめ、大田垣蓮月(江戸時代の女流歌人)、中村内蔵助妻(京都銀座に巨万の富を有した豪商の妻、当時妻女の衣裳比べの会で抜群の誉を得た)、お梶(女流歌人で、祇園に茶店を営んでいた)、玉瀾(池大雅の妻で、閨秀画家として南画をよくした)


吉野太夫(京都六条三筋町の名妓)、出雲阿国(出雲大杜の巫女を名乗って京都で「やや子踊」や「かぶき踊」を演じ歌舞伎の創始者とされる)が続きます。

豊公参朝列(安土・桃山時代)
豊公(豊臣秀吉)の参朝のうち慶長元(1596)年5月秀頼初参内、同2(1597)年9月元服の時などは最も盛んであったと伝えられます。この列はそれを表したものです。


柴田勝家
織田公上洛列(安土・桃山時代)
応仁乱後、京都は衰退していましたが、永禄11(1568)年、織田信長は天皇のお召しに応じて兵を率いて上洛し、その復興に尽くしました。その上洛を表したものです。


足利将軍

室町幕府執政列(室町時代)
武家風俗を中心とするもので、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿を表現しています。足利将軍に幕府の執政にあたる三管領・四職に任ぜられる主要氏族が御供衆として従い、公家・法中・御博士・医師などの特色ある風俗が表現されています。

風流傘 この緑色の笠を取り外しぐるぐるまわりを踊ります。「風流おどり」


笠をぐるぐる回し、白頭巾の男たちが周りを踊ります。


室町洛中風俗列(室町時代)
16世紀、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊りを再現したものです。風流傘を中心に、囃子方、踊り手で構成されます。


この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出すとともに、江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっています。



楠公上洛列(吉野時代)
元弘3(1333)年、後醍醐天皇が隠岐から還幸された際、楠木正成は一族郎党を率いて鳳輦を兵庫に迎え、先駆として上洛しました。その楠公一代を通じての盛事であった行列で、華麗な甲冑や武具が見られます。

まきを頭にのせています.

中世婦人列(吉野時代)
大原女(洛北大原から薪や炭などを頭にのせ京の町へ売りに出た女性たち。これは室町末期の大原女姿)、桂女(洛西の桂から、主として桂川の鮎と飴を京の町々に売り歩いていた女性たち。


桂包という髪を白い布で包み、着物を短く着た装束が特徴)、淀君(豊太閤の側室で浅井長政の娘)、藤原為家の室(阿仏尼)、静御前(源義経の愛妾で白拍子。本列は白拍子時代の姿)。これらの行列が、それぞれ特徴のあるこの時代の風俗を示しています。

城南流やぶさめ列(鎌倉時代)
馬上から的を射る流鏑馬は、平安時代から武士のたしなみとして盛んでした。承久3(1221)年、後鳥羽天皇は朝威回復をはかるため、城南離宮での流鏑馬(やぶさめ)に託して近畿十余国の武士を召されました。 この列は狩装束の射手の武士を中心とした流鏑馬に見せかけた武士の姿を表しています。


藤原公卿参朝列(藤原時代)
平安中期以後、唐様式の影響が薄れ、日本独自の「国風文化」が発達した頃、藤原氏の全盛期の王朝風俗で、文官・武官の夏の正装姿を表したものです。


平安時代婦人列(藤原時代)
巴御前(木曾義仲の寵愛をうけ、義仲没後尼となったと伝えられる)、横笛(建礼門院の雑仕女で滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼を訪ねて行く姿)、常盤御前(源義朝の側室で、義朝亡き後、三児を連れて六波羅へ名乗り出るところ)、清少納言と紫式部(清少納言は枕草子の著者。紫式部は源氏物語の作者。


前者は女官の正装であり、後者は略装です)、紀貫之の娘(延喜の頃の名歌人・貫之の娘で故事により梅の枝を持っている)、小野小町(才色兼備で知られた平安前期の女流歌人)、和気広虫(和気清麻呂公の姉で、慈悲深く多くの孤児を養育した人)。

延暦武官行進列(延暦時代)
本列の大将に当たる人物は征夷大将軍・坂上田村麻呂を擬したものです。

延暦文官参朝列(延暦時代)
この時代の公卿諸臣の参朝の状景を表したもの。平安遷都から間もない頃で唐風の特色が残る服装です。

神饌講社列
この列は時代祭当日の神饌物を奉献する役を勤仕する者の行列です。


前列
神幸列に前行する故に前列といわれます。雅楽の伶人、迦陵頻(かりょうびん)胡蝶など優美な行列で、また多数の狩衣姿の供奉もあります

孝明天皇の乗られた御鳳輦

桓武天皇御鳳輦




神幸列
御賢木(おんさかき)を先頭に、御鳳輩を中心とする神幸の本列です。前の御鳳輦が孝明天皇、後の御鳳輦が桓武天皇で、御祭神がこの京都を巡幸され、市民の安らかな様を親しくご覧になる行列です。時代祭の各行列は、この御祭神にお供をして行進しており、本行列中、主たる意義をもつ列です


この人は頭の篭にて襲えていない、見事なバランス感覚でした。

白川女献花列
比叡山を源に発する白川の流域に住み、季節の花を売り歩くのを業とする女性が白川女(しらかわめ)で、その歴史は古く、平安時代中頃から御所に花を届けていたともいわれています。
本列は伝統的な白川女姿で、神前に供える花を頭にのせています。 

弓箭組列
丹波国南桑田(現在の亀岡市)、船井(現在の南丹市)両郡には、源頼政に従って弓箭(きゅうせん)の術を究めた者が多く、その子孫も平素弓箭組を組織していました。 桓武天皇平安遷都の際その御列の警護にあたったとも、また、維新の際には山国隊とともに活躍したともいわれています。

最後尾は馬を運ぶトラックでした。


説明文は販売パンフレットから引用

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