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京都 源光庵 悟りの窓、迷いの窓 血天井

2021年10月27日記事整正しリライトしました。
源光庵
悟りの窓、迷いの窓
源光庵を訪れる人の目的は「迷いの窓」と「悟りの窓」です。
この窓は本堂が建てられた時からあり、それぞれに仏教の概念、禅の境地の意味が込められているようです。


住所:京都市北区鷹峯北鷹峯町47
山号:鷹峰山
宗派:曹洞宗
創建:1346年(貞和2年)
開基:徹翁義亨
本尊:釈迦如来
電話:075-462-1058
駐車場:あります
市バス「鷹峯源光庵前」下車 徒歩約1分

両脇にはススキがあります・

山門の額 「復古禅林」曹洞宗の習慣を批判した道白に清愛山師から贈られた


源光庵は、貞和2(1346)年に徹翁(てっとう)国師が開山した寺院で、もともとは臨済宗大徳寺派の寺院として創建されました。元禄7年(1674)に加賀・大乗寺の27代目卍山道白(かいざんどうはく)禅師がここの住職を務めたことから曹洞宗の寺院に改められ、現存する本堂も建立されました。


本堂にはご本尊の釈迦牟尼佛、両脇に阿難(あなん)尊者、迦葉(かしょう)尊者がおまつりされています。本堂横には、卍山禅師が享保4(1719)年に建立された開山堂があります。卍山禅師は、宗祖道元禅師の教えが当時の乱れた宗門を復古した功績から、「中興の祖」として讃えられています。山門には、「復古禅林」の額が掛けられています。



卍山禅師は、天和元(1681)年に京都洛南宇治田原の山中で、霊芝というきのこからできた霊芝観世音を感得しました。すると、当時の後西天皇は自然のものでできたこの観音像をおまつりしたいとのことから、宮中で供養しました。その後、観音像は源光庵に戻り、秘仏としておまつりされるようになりました。


有名な悟りの窓・迷いの窓」を持つお寺は京都に2カ所あります、それが、東山「雲龍院」(泉涌寺別院)泉涌寺の山内寺院と、当「源光庵」です。

悟りの窓、迷いの窓
源光庵を訪れる人の目的は「迷いの窓」と「悟りの窓」です。
この窓は本堂が建てられた時からあり、それぞれに仏教の概念、禅の境地の意味が込められているようです。


「迷いの窓」は四角い窓に「人間の生涯」を象徴し、生老病死(しょうろうびょうし)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)生老病死の四苦八苦を顕わしているといわれています。


「悟りの窓」は円い窓に「禅と円通」の心を表し、ありのままの自然な姿、清らかで偏見のない姿、悟りの境地を教える窓といわれています。大宇宙を表す。


この二つの窓は、まず迷いの窓の前で自問自答し、そのあと悟りの窓の前で自分を見つめ直すことで、純粋な本来の自分に変わることができるといわれています。
この二つの窓の前には、自問自答し自分を見つめなおしている多くの参詣者の姿があります。

源光庵の天井本堂の天井には、足跡があります。これが血痕です。長い年月で言われてみないと血痕とは気が付かないです。この天井は、血天井と呼ばれています。


京都・伏見桃山城の遺構。慶長5(1600)年、徳川家康の忠臣であった鳥居彦右衛門元忠他約1800人が、石田三成の軍勢と交戦し、多くの武将が討死しました。生き残ったおよそ380人全員も自刃し、流れた血痕が床に残されました。また、遺骸は関ケ原の戦い以後まで放置されていました。


亡くなった人の魂を冥福しようと、血痕の残された床板は5つの寺院にわけられ、一部が源光庵にも奉納されました。そして床板を天井にあげ、魂の供養が行われました。血痕の染まった足跡がありますが、これほど明確に足跡があるのは、ここ源光庵にしか残されていないとのことです。養源院は血しぶきの跡がくっきりと残っていました。

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